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ふたばの日記

高等教育や学術政策に関心がある大学生のブログです。考えたことのメモなど。

国内外の大学における職員/教員比率

 私は、昨日の記事(「河野太郎の大学の悩み聞きます@東京大学五月祭」に関する考察 - ふたばの日記)のなかで、国内外の大学における教員、職員とアカデミック・スタッフの比率についての比較のデータを取り上げた。そこでは日本の大学としては東京大学のみが含まれていた。しかし、一般的に東京大学は日本の大学のなかでは外れ値と捉えた方が適切であろうから、より多くの大学を比較することで日本の大学一般の状況を検討する必要があると思われる。そこで今回は、日本の国公私立の有力大学について、データの比較を行ってみることにする。(なお、先日手に入れた東洋経済の増刊号のデータを使ってみたかっただけでもあるww)

 なお、先に注意を払っておくが、以下に提示したデータのみでは精緻な解釈をすることは不可能である。下で利用したデータは専任教員数と専任職員数(と学生数)であるが、そもそもこれらの内訳には大学毎あるいは国によって差異があるだろうし(だから国際比較は難しい…)、非専任教員やアカデミック・スタッフは含まれていない。したがって、あくまで参考のデータに過ぎない。

1.元にするデータについて

 今回、国内大学については、東洋経済新報社[2017]『週刊東洋経済臨時増刊「本当に強い大学2017」』の学生数、教員数、職員数のデータを利用した。これらのデータは、「2016年5月現在。数字は大学単体ベース。学生数…は大学院生を含む(受け入れ留学生、研究生、聴講生は除く)。…教員数は助教以上の専任教員、職員は専任で派遣を含まず」となっている。なお取り上げる大学については、国公私立の大学それぞれについて、筆者の恣意的な基準で有力大学だと思われるところを選定した。

 海外大学については、前回利用した東京大学国際連携本部国際企画部[2007]「世界の有力大学の国際化の動向調査報告書」のデータを用いた。東京大学に関して、2015年の集計したデータと東洋経済の2016年のデータを突き合わせたところ、東洋経済における教員数、職員数はそれぞれ東京大学の報告書における専任教員、専任職員に該当すると判断し、そのように処理している(年度の違うデータを利用しているので、適合していない可能性もある)。したがって、今回の職員/教員比率は、非専任も含まれていた前回の記事内の表における職員/教員比率とは少々値が異なっている。ただし、概ねその値は一致しているため、比較には一定の意義があるだろう。なお、この海外大学のデータは東洋経済の国内大学のデータよりも10年ほど前のデータになるので、現在ではその値が変化している可能性も当然ある。

2.結果

f:id:futaba_szk:20170523125539j:plain 表1:国内外大学教員・職員・学生数
出典:国内大学は東洋経済新報社[2017]『週刊東洋経済臨時増刊「本当に強い大学2017」』、海外大学は東京大学国際連携本部国際企画部[2007]「世界の有力大学の国際化の動向調査報告書」、pp. 67-68、より筆者作成

f:id:futaba_szk:20170523123515j:plain 図1:国内外大学職員/教員比率
出典:同上

 全体として、設置区分、医学部の有無によって傾向が読み取れる。設置区分は財政的な余裕を示しており、医学部の有無は、医学部(病院)には比較的職員が配置されやすいということを示しているのだろう。個別に見ると、横浜市立大学が著しく高い職員/教員比率を示しているが、これは小規模かつ医学部を持つ大学であるからという外れ値と見るべきか。概して国立大学では1.0~1.5程度、私立大学では0.5~0.9程度になっている。

 海外の大学では、米国の大学の数値の大きさが極めて顕著である。医学部のないUCBでも5.0近くとなっているのは、気になる点である。

3.最後に

 冒頭でも指摘したが、そもそも用語の定義が統一されているとは考え難く、またアカデミック・スタッフの存在や、非正規の教員/職員の存在も考えると、上記のデータで精緻な解釈をすることは難しい。また、医学部の有無によって教職員のあり方は大きく変わってくると思うため、例えば病院職員を抜いて比較することなども必要かもしれない。

 とはいえ、教員と職員の比率を考えるという、国内大学だけを見ていてはあまり気を払わないかもしれない点について、目を向けてより深く考えていく一助にしてもらえれば幸いに思う。

「河野太郎の大学の悩み聞きます@東京大学五月祭」に関する考察

 日曜日の東京大学五月祭において、政治家の河野太郎氏を招いた大学の問題に関するイベントが開催された。そのなかで、九州大学の大賀哲先生と一橋大学の川口康平先生による、競争的資金の間接経費の運用方法についての要望がなされた。その要望を簡単に述べると、
・競争的資金の間接経費を当該研究者の研究の生産性向上のために活用すること
・現行の状況の背景にある基盤的経費の削減に対策を講じること
の二点である。私としてはお二方の提案に概ね賛成なのであるが、その背景にあることや、実現の難しさについて考察したことを以下に書いておく。
 なお、要望書や当日の発表資料についてはこちらを参照のこと。また、当日の議論に関しては、河野太郎の大学の悩み聞きます@東京大学五月祭(とその後の反応) - Togetterまとめで概要を掴むことができる。

1.はじめに:前提として

1.1.権限の問題

 河野太郎先生はWord罫線問題(科研費のWord罫線問題に河野太郎氏が反応してくださった話 - Togetterまとめ)や神エクセル問題(河野太郎議員(@konotarogomame)とネ申エクセル問題&オープンデータの話 #ネ申エクセル #ネ申殺し - Togetterまとめ)等で、最近大学の問題に多く関わっている。実際その働きかけによって実現したものがかなりあり、それらの問題の解消は評価すべきものだと思われる一方で、権限の観点からとして危うさがあるのではないかと感じている。
 というのも、国立大学法人はあくまで国から独立した法人であり、政治家⇔行政(文部科学省)⇔国立大学というラインで上位から権力行使されるのは可能な限り抑制されるべきだと思うからである。確かに、国立大学の側が自主的に解決することがあまりにもできないからそのような介入が入らざるを得ない点もあるのかもしれないが、大賀先生のところにこの件について事務職員の方から提示された意見(間接経費・要望書の件で | 九州大学国際政治学教室)のように、本来ならば自主的に解決されるべき事象であり、政治家経由の介入が頻繁に行われたという事実を作ることが将来に悪く響かないことを願っている。

1.2.運営費交付金の減額

 もう一点、前置きとして前提の話をしておくと、大賀先生/川口先生がそもそもの問題として述べていることであるが、近年の国立大学法人における運営費交付金の減額は間接経費の問題にも関わる重大な問題である。運営費交付金が減少し、基盤的な経費が不足しているからこそ、競争的資金に伴う間接経費を基盤的な運営経費として活用せざるを得ないという事情がある。
 また、経費の問題に加えて、事務職員の少なさと専門性の低さも指摘しておくべきだろう。河野太郎議員はかつて法人化後の事務職員の増員を問題提起するようなブログを投稿していたが、そもそも法人化の時点で国家公務員削減の流れで人員は少ない状態であり、また法人化に伴い業務量も増大しているなかで、増員した今でも不十分であると思われる。この点については、若干古いデータではあるが、以下の海外大学との比較データを見てみると、その違いがよく分かる。

f:id:futaba_szk:20170522175023j:plain 図1:「世界の有力大学の教職員の構成」
出典:東京大学国際連携本部国際企画部[2007]「世界の有力大学の国際化の動向調査報告書」、p. 34

 なお、このデータにおいて「アカデミック・スタッフ」は大学によって差異があり、比較には注意が必要である(表1、2を参照)。そして、東京大学のデータにおいては助手がアカデミック・スタッフに含まれている。これは、2006年のデータであるためこのようになっている。2007年から助手の大部分が教員としての助教に変更される。すなわち、上記のデータでアカデミック・スタッフに区分されていたものの大部分が教員の区分に移動することになり、それによって(AS+職員)/教員の値は2.2から1.1まで急激に減少することになる(表3を参照)。

f:id:futaba_szk:20170522175107j:plain 表1:世界の有力大学の教職員の名称・分類(1/2)
出典:同、p. 67

f:id:futaba_szk:20170522175144j:plain 表2:世界の有力大学の教職員の名称・分類(2/2)
出典:同、p. 68

f:id:futaba_szk:20170523103752j:plain 表3:東京大学の教職員の構成 出典:「職員数(平成18年5月1日現在) | 東京大学」「職員数(平成19年5月1日現在) | 東京大学」「職員数(平成27年5月1日現在) | 東京大学」より筆者作成

※追記:参考までに2015.5.1時点のデータも追加した。なお、統計区分が変化していたので、表4のように処理してある。その結果、2007年と比較して(AS+職員)/教員比率およびAS/教員比率は若干上昇したが、依然として低い数値のままになっている。また、職員/教員比率は変化していない。

f:id:futaba_szk:20170523133659j:plain 表4:2015.5.1時点のデータの処理 出典:筆者作成

 なお、事務職員の専門性については、重要な論点であるものの、採用や人事まで関わってくる複雑な話であるため、今度時間があるときに別にまとめたいと思う。ここでは、ともかく教員を支えるスタッフの割合が海外の大学と比較して著しく小さいということを指摘しておきたい。

2.競争的資金と間接経費について

2.1.競争的資金と直接経費/間接経費の定義

 競争的資金とは、「資源配分主体が広く研究開発課題等を募り、提案された課題の中から、専門家を含む 複数の者による科学的・技術的な観点を中心とした評価に基づいて実施すべき課題を採択し、研究者等に配分する研究開発資金」(第三期科学技術基本計画より、出典)である。そして、競争的資金に関する関連府省連絡回申し合わせ「競争的資金の間接経費の執行に係る共通指針」(以下、「共通指針」と呼ぶ。)によると、直接経費とは「競争的資金により行われる研究を実施するために、研究に直接的に必要なものに対し、競争的資金を獲得した研究機関又は研究者が使用する経費」であり、間接経費とは「直接経費に対して一定比率で手当され、競争的資金による研究の実施に伴う研究機関の管理等に必要な経費として、被配分機関が使用する経費」である。また、間接経費導入の趣旨は、競争的資金による研究の実施に伴う研究機関の管理等に必要な経費を、直接経費に対する一定比率で手当することにより、競争的資金をより効果的・効率的に活用する。また、間接経費を、競争的資金を獲得した研究者の研究開発環境の改善や研究機関全体の機能の向上に活用することにより、研究機関間の競争を促し、研究の質を高める」とされており、原則的に直接経費の30%に当たる額を間接経費とするようにしている。共通指針のなかでは、間接経費の主な使途として、次のものが例示されている。

区分 詳細
(1)管理部門に係る経費 (ア)管理施設・設備の整備、維持及び運営経費
(イ)管理事務の必要経費:備品購入費、消耗品費、機器借料、雑役務費、人件費、通信運搬費、謝金、国内外旅費、会議費、印刷費
など
(2)研究部門に係る経費 (ウ)共通的に使用される物品等に係る経費:備品購入費、消耗品費、機器借料、雑役務費、通信運搬費、謝金、国内外旅費、会議費、印刷費、新聞・雑誌代、光熱水費
(エ)当該研究の応用等による研究活動の推進に係る必要経費:研究者・研究支援者等の人件費、備品購入費、消耗品費、機器借料、雑役務費、 通信運搬費、謝金、国内外旅費、会議費、印刷費、新聞・雑誌代、光熱水費
(オ)特許関連経費
(カ)研究棟の整備、維持及び運営経費
(キ)実験動物管理施設の整備、維持及び運営経費
(ク)研究者交流施設の整備、維持及び運営経費
(ケ)設備の整備、維持及び運営経費
(コ)ネットワークの整備、維持及び運営経費
(サ)大型計算機(スパコンを含む)の整備、維持及び運営経費
(シ)大型計算機棟の整備、維持及び運営経費
(ス)図書館の整備、維持及び運営経費
(セ)ほ場の整備、維持及び運営経費
など
(3)その他の関連する事業部門に係る経費 (ソ)研究成果展開事業に係る経費
(タ)広報事業に係る経費
など
※上記以外であっても、競争的資金を獲得した研究者の研究開発環境の改善や研究機関全体の機能の向上に活用するために必要となる経費などで、研究機関の長が必要な経費と判断した場合、執行することは可能である。なお、直接経費として充当すべきものは対象外とする。

出典:共通指針、別表1

2.2.間接経費運用の現状

 上記のような共通指針に対して、現状の国立大学においては間接経費の大部分が大学全体の運営経費として活用されていると思われる。あるいは、少なくとも競争的資金を獲得した研究者が、自らの研究の推進にあたって間接経費が十分に活用されているとは感じていないようである。
 また、共通指針では、基本方針として「被配分機関にあっては、間接経費の使用に当たり、被配分機関の長の責任の下で、使用に関する方針等を作成し、それに則り計画的かつ適正に執行するとともに、使途の透明性を確保すること」ということが述べられているにも関わらず、各機関において方針が明示されておらず、間接経費の使途についても透明性があるとは言い難い。
 間接経費を機関全体の運営に対して利用することは上記の例示にもあるように趣旨に反するとは言い難いものの、間接経費の一定割合が競争的資金を獲得した研究者の教育負担や事務負担を削減するために活用されるのは、研究を進めていくインセンティブとして当然のことであると思う。これは、科研費に限らず大型の研究プロジェクトでもそうで、結局構想をまとめる/マネジメントを行う役割を担うのはババを引くようなもので、「自分に仕事が降ってくるだけだから大型のプロジェクト資金には応募したくない」ということは耳にすることである。
 またそもそも、競争的資金の獲得は機関評価に活用されるもので、競争的資金獲得→評価高→運営費交付金高が成り立つのであれば、間接経費を機関の運営費に使うのは不適切であるように感じられるし、大学の評価を上げるため、間接経費を通じた運営経費を集めるために所属研究者に競争的資金への応募を強いるのは望ましくないと思うのである。

2.3.間接経費が適切に使用されるようになったなら

 今回要望がなされたように、間接経費を競争的資金を獲得した研究者の研究環境の向上のために活用するというのはもっともなことである。ある程度はそのようになればいいと思う。しかし、そうするとすればこれまで本部に吸い上げられていた資金が当該研究者の方に配分されるようになるのであろう。そうするとその先に予想されるのが、(もう既にほとんどない)本部から学部への資金が減少するということである。運営費交付金自体をどうにかしなければ、結局本部から部局を通して薄く広く配られる資金が、競争的資金を獲得した研究者の間接経費の措置に振り返られるだけかもしれない。確かに、アメリカでは部局予算ゼロで外部資金による研究費獲得のみでやっているところは存在し、そういう方向性もなくはないのかもしれない。
 ただ、基盤研究費の付与をゼロにして、全てを競争的資金にするのが適切かというと、いくつか考えるべきポイントがあると思うのである。まず、競争的資金に応募するコストに対して研究のコストが見合うのかというものがある。例えば、数学の研究者であれば、それほど研究にコストはかからず、競争的資金に申請する労力をかけるくらいなら部局の非常に少額な部局経費で研究を行った方が効率的かもしれない。
 次に、競争的資金というものは不採択の際にいきなり研究費がなくなるリスクが存在する。そのような事態に陥ると、例えば実験動物の維持さえ行えない状況になりうる。その上、競争的資金の研究成果は2~5年程度で求められるのが一般的である。研究は、短期スパンで行われるものと長期スパンで行われるもののポートフォリオを組むべきだと私は考えているが、そうした長期スパンの研究を担保するためにも、あるいはときには競争的資金をあえて取らずにじっくりと研究に取り組む時間を確保するためにも、基盤的経費には意義があるのではないだろうか。ただ、確かにその運用は非常に難しいし、競争的資金の一部を研究計画外の研究に利用することができるような制度を作るなど(非常に難しそうだけれど…)、他の方法で担保することもできるかもしれない。

3.おまけ:教員給与の見方

 今回の要望のテーマにはなっていないが、要望者の川口先生は国内外の大学教員の給与格差の問題について話題になった(「給料格差ツイート、狙ってやった」 日本捨てる若手学者の危機感 - withnews(ウィズニュース))。この点について、若干の言及をしておく。まず、給与額以前に内定後の雇用契約が書面で通知されない、着任してからでないと給与額がわからないというのは大きな問題である。雇用の条件を明確にすべきというのは、他の機関との交渉のためという以前に労働契約として当然のことであろう。
 次に、大学教員の給与の額を他の職業と比較するならば、いくつかの前提を認識する必要がある。それは、以下の通りである。  まず、大学院時代は(減免がある場合もそれなりにあるが)学費を払って学ぶのが通常である。研究者になることが仕事だとあまり認められていない日本では、大学院で研究をするということに対して、好きなことをやることがで羨ましいという目が周囲から向けられがちである。仮に学振DCを取ったとしても、十分な金額とは言い難く、社会保険は無く、兼業禁止規定が設けられている。学位を取っても、多くの人がポスドクやや非常勤講師として不安定な初期キャリアを築くことになる。その先では任期付きの先の見えないポストに就くことが多く、教育系の特任に就く場合は研究ができないリスクもある(例えば、新潟大学の教育GPについて赤裸々に述べてある、大島勇人/浜島幸司/清野雄多[2013]『学生支援に求められる条件:学生支援GPの実践と新しい学びのかたち』東信堂、が参考になる)。テニュアのポストを得られたとしても、現在は多くの大学で昇任が凍結されている。現在広まっている年俸制雇用では、退職金がなく、最終的に教授にまで昇格するのは結構年を取ってからになる。
 つまり、
・安定的な初期キャリアに就くまでが不安定
そもそも不安定なポストに就くまででも長期間な投資が必要
・どこかでキャリアチェンジをするにも、日本の人材マーケットでは外部からの需要が小さい
テニュアを得られたとしても給料が低い
・キャリア全体を通して福利厚生が貧弱
という状況であり、一時点の給与額を見て安易に判断をするのは適切ではないということに注意しなければならないのである。

Twitter検索ツール

 Twitterで情報収集するにあたって、便利な検索ツールを調べたのでまとめておく。

特定用途

リツイート数 min_retweets:100
・ファボ数 min_favs:100
・言語 lang:ja
・ユーザーID from:userID/to:userID/@userID
・期限 since:2000-01-01/until:2001-01-01
 ※日本時間 since:2000-01-01_JST_01:00:00 until:2001-01-01_JST_11:00:00
・リスト内 list:userID/listname
・場所 near:me/near:東京
・ポジティブ/ネガティブ :)/:(
・その他 "A"/A OR B/A -B

操作変数

・含む/除外/限定 include:/exclude:/filter:
・投稿元 source:

対象変数

・公式RT nativeretweets
・リンク links
・認証アカウント verified
・画像 images
・動画 videos
・画像と動画 media
・ニュース news

「みんなで翻刻」とニコニコ超会議

 4/30に幕張メッセにて行われたニコニコ超会議に行ってきた。超歌舞伎とかもろもろ気になるものはあったのだけれど、そのなかでもニコニコ超学会の「研究してみたマッドネス」(これは29日のプログラムで行き損ねた。悔しい)、そして「みんなで翻刻」に特に感心を持っていた。

 ということで、ずっと気になっていたものの手を出すことのなかった「みんなで翻刻」を体験することができたので、ニコニコ超会議にブースを出すということも含めつつプロジェクト全体について感じたことを書いておく。なお、以下は基本的に私の解釈にすぎない(そしてあまり詳しくないので以下の記述は正確性に乏しいかもしれない)ということと、「みんなで翻刻」プロジェクトに対しては非常に好意的なスタンスであることを予め述べておきたい。

「みんなで翻刻」プロジェクトとは?

 はじめに、「みんなで翻刻」プロジェクト(HP)に関して簡単に紹介しておこう。このプロジェクトは、京都大学地震研究会による災害史料の市民参加型翻刻プロジェクトであり、2017年1月に公開された。江戸時代以前の、現代語とは書記体系が異なる(「くずし字」)史料をクラウドソーシングにより市民の手で翻刻していく。アプリ(くずし字学習支援アプリKuLA)を用いた学習の観点や、参加者間の相互添削の試みを含めた、先進的な取り組みである。

背後の潮流

 大きな話でいくと、世界的な政策の潮流であるオープンサイエンス、シティズンサイエンス、デジタル・ヒューマニティーズ等の潮流に乗った取り組みと言えよう。ただし、こうした潮流に対して日本では例えば図書館司書の位置づけや、市民による科学への参加、史料の保存や公開に対する姿勢など、様々な面でネックになる部分があると思っていて、そのなかで「みんなで翻刻」のようなプロジェクトが進むのかどうかに対しては懐疑的な考えを抱いていた。

ニコニコ超会議を通して考えたこと

 ここからは、実際にブースに行ってやりとりをしながら考えたことをつらつらと書いておく。

プロジェクトの意義とマネタイズ

 一般的な話として、日本ではかなり過去の史料が重要だとみなす意識は弱いと思われる。それは、文書館がどれだけ大事にされているかというところから推測される。そんな風土がある国において、このような翻刻プロジェクトは進むのか?あるいは資金を得られるのか?というのが疑問であった。その点については、地震関係史料ということが対応していたようだ。そもそも数百年レベルのものが確率的に推測できるのかどうかという点の疑いはおいておいて、文書への記述があるかどうかは過去に自然災害があったということの証拠になる。ということで、そうした災害関連文書を地震学者が読むことができれば研究に使いうるのであるが、くずし字という特殊な文字体系であるためそれは難しい。そこに対して、プロジェクトとして取り組むことで地震学者が活用できるように「解読」し、地震研究に活用することができるというのがプロジェクトとして打ち出している方向性のようである。そうして、下手すれば趣味とみなされかねない文献解読に意義付けて、それに資金をもらっていると思われる。

データベース構築と機械学習

 くずし字は異体字が多すぎるため、なかなか判読は難しい。しかし、それを大量にデータ化することで、統計的に推測が容易になってくる。プロジェクトの進展に際して文字データが蓄積されていき、また文字レベルに加えて分レベルのコーパスがデータとして蓄積されていく。これにより大量の学習用データとして利用できるようになり、機会学習による自動翻訳につながっていくこともあるのではないだろうか。そしてそこまでできるようになってくると、この入口は地震文書であるものの、同時代の他の文書にまで解読技術が応用されうるようになってくる。そのような技術が開発されれば、写本の誤転記などまだクリアしなければいけない問題はあるものの、解読の手助けになることは間違いないだろう。

市民参加の科学

 そもそも日本では市民が科学に参加するということは弱いと思っていて、オープンサイエンスの文脈で「シティズンサイエンス」に言及されるときも、その意味内容について明確なイメージが持てない状態でいた。そこで、このプロジェクトについても本当に人は参加するのかどうか懐疑的であった。しかし今回参加して思ったのは、入り口としては学習ゲームアプリとしてゲーミフィケーションの要素を取り入れ、他者との交流があり、翻刻画面のUIも使いやすくて、あまりかしこまった「科学」への取り組みだと感じさせないことで一般の参加を促しているように感じられた。こうした成果については、メールマガジン『人文情報学月報』第69号における橋本雄太「人文学における市民参加と人文情報学」において、以下のように述べられている。

 幸いなことに、これまでプロジェクトは順調に進捗しており、公開から105日目が経過した現時点で、3193枚ある史料画像の89%の翻刻が完了している。参加者により入力された文字の合計は180万字に達した。筆者が所属する京都大学地震研究会は、2011年から歴史地震史料を解読する活動を続けているが、現在までに翻刻できたテキストは15万字程度である。その約12倍の量のテキストが、4ヶ月に満たない期間で入力されたことは、筆者を含む研究会メンバーにとって大きな驚きであった。もっとも、専門研究者が複数で検討した翻刻文と比較すれば、正確性の面では問題が多い。今後は、専門家の介在のもと、「みんなで翻刻」上で入力されたデータを校訂し、研究資料として活用に繋げる仕組みを構築することが課題である。

 参加者を対象に実施したアンケートの結果によると、翻刻作業の中核を担ったのは、学生時代に日本史や日本文学を専攻していたOBや、カルチャーセンターや市民サークルで古文書解読を学習している非研究者の方々であった。「みんなで翻刻」を運営していて強く実感したことは、このような在野の人々の能力の高さと、史料解読に向ける情熱の強さである。参加者の中には、公開から3ヶ月の間に、21万字(!)を翻刻した人もいる。こうした人々の存在は、なかなかアカデミア内部からは見えにくい。しかし人文情報学は、ネットワーク技術を駆使して、地域や所属に関わらず人々を結びつけることができるという強みを有している。市民の人文学研究への参加を実現する上で、人文情報学は今後も主導的な役割を果たすことになるだろう。

科学のオープン化

 こうした史料の電子化や翻刻、そこから派生するメタデータ管理は、オンラインで様々な史料にアクセスができる環境を構築していく。これは、日本人の研究者に利用されるだけでなく、一般市民が読むことはもちろん、海外の研究者にとっても一次史料を活用できるようになっていく。外国人による日本研究がどうあるのがいいのかは色々と悩ましいことがあるだろうが、一次史料にアクセスできるようになり、かつくずし字という難しい言葉で書かれたその史料を解読するための補助が得られることは、海外における日本研究を促進するのではないだろうか。

ニコニコ超会議

 どうしてもこういう取り組みはアカデミア周辺、それもデジタル・ヒューマニティーズの界隈の人々か、あるいは地震研究に関わる人々に限定されがちなのではないかと思われる。それが、ニコニコ超会議という、アカデミアの世界とはあまり縁のないであろう人々にリーチする機会となり、しかも上記のようにゲーミフィケーションをふんだんに含んだものにまず試してみるように促すことで、自然にプロジェクトに参与していくことができるようになっている。また、その取り組みはリアルタイムでニコニコ動画で放送され、リアルとネットの双方からプロジェクトを広報するようになっている。人文学というとどこか専門家が趣味的にやっているというイメージが強そうなのではないかと思われるなかで、このように研究に触れる機会を作っていく場として、ニコニコ超会議のような取り組みは非常に興味深いと思われた。

最後に(どうでもいい)

 くずし字アプリはKuLAというのだが、京都大学のURA室がKURA(Kyoto University Research Administration Office)で、いつも一瞬戸惑う。笑

補助金事業に駆り出される任期付教員の悲哀

 大島勇人/浜島幸司/清野雄多『学生支援に求められる条件:学生支援GPの実践と新しい学びのかたち』(東信堂、2013年)を読んだ。この主題は「補助金事業に駆り出される任期付教員の悲哀」というわけではないのだが、節々から醸し出される悲哀を感じずにいられなかったためにこのようなタイトルにしてしまった。ご容赦願いたい(笑)

 さて、本書は、新潟大学における学生支援GPの取り組みについて、学生支援の部署の担当となった教員、プログラムの中心的役割を果たした任期付教員、参加者の学生の三者それぞれによるプログラムの振り返りと、そこから導き出される教訓について述べた本である。主題としては学生支援プログラムがテーマになるわけであるが、現在の大学経営について一般的に当てはまる事象が多く取り上げられていたように思うので、自分なりに感じ取ったことを簡単にまとめておく。

1.使い捨てられる任期付教員

 特にこの事例に限られることではないが、最近の補助金事業では、とかく特任教員が濫用されている。大学院重点化やポスドク100万人計画で急増することになった若手研究者は大量に滞留している一方で、大学への運営費交付金は減少し、終身のポストは退職しても補充されずという状況が広がっている。そのようななか、大型の補助金事業の「労働力」として「使い捨て」かのように使われる任期付教員が大量に増えている。色々と気になる面はあるけれども、本書の例のように全学で取り組む大型補助金事業において、組織内の政治力学を把握しているわけではなく、任期が切れたらどうしているか不安ななか特に愛着もない大学に流れ着いている任期付教員に補助金事業を任せるのはいかがなものか。もちろん、ポストを得る以上信念を持って力を尽くす任期付教員はいらっしゃって、そうした方々の努力には感心するものがあるが、そうした体制でいいように使う組織はどうかと思う。

2.採用のミスマッチ

 本書のなかでは、ひたすら各種調整を行うポストが自分には適切ではなかったと思われるとの記述がちらほらと散見された。この事例が特殊なのかはわからないものの、採用の際に職務の内容が明確化されていない状態であったのではないだろうか。大学の採用一般として紙面での契約が明確でないというのはよくある話であるそうだし、この件とは話が異なるが、「デキ公募」の話もしばしば耳にすることで、このあたりの採用慣行をきちんと考え直す必要があるのではないだろうか。それに加えて思うのは、大学よりも専門家コミュニティに帰属意識を持つのが一般的な大学教員が、より組織としての大学の教育の質を高めていくために、大学への所属意識を高めるための採用方法を検討した方がいいのではないだろうか。

3.プログラムの理念と組織構成

 本書でしばしば語られるのが、そもそもプログラムの理念が非常に曖昧であって、かつその理念を組織全体として検討する機会もなく、末端の人たちにとっては意思決定の判断基準が見えなかったということであった。さらに、プログラムが学内政治の手段として利用され、そのしわ寄せは任期付教員や学生に降りかかることになってしまった。なんというか、非常にしょうもない話である。競争的資金を取るための調書を作り、資金を取ったら終わりなのではなく、そこからどういう体制を取って、どういうマネジメントを行っていくのかが何より大事なわけである。学内政治力学を理解し、経験の豊富な職員がプログラムマネージャーとしているのがいいのではないかという指摘があったが、この点に関しては国立大学では職員の立ち位置も微妙なところがあるかもしれない気がするが、ともあれ任期付教員が中心的役割を担って上手くいくはずがないというのは真実であろう。

4.関係性能力としてのリーダーシップ

 本書の内容からは多少それるが、リーダーシップとは結局関係性能力なのだと改めて感じた。上から見れば主体的に動こうとする人間を信頼し、サポートする体制(予算、失敗への寛容性等)が必要だし、下から見ればリーダーに従っていくフォロワーシップが重要である。もちろん、それらを引き出していく力というものも重要なのかもしれないが、クソみたいな環境のなかであがいて絶望していく人に対しては同情の意を感じざるを得ない。

5.学生の主体性

 「自由にやってもいいよ」と言っても、結局何をやっていいかわからずに戸惑ってしまうのが現実であるらしい。何となくその状況は分かる。しかし、ここのボトルネックはどこにあるのだろうか。最近思うのは、ひょっとしたら主体性は全員に求めるものではないのかもしれないということだ。それよりも、上から降ってきたものであれ、きちんと目標管理をして適切な期間内にある程度の成果を出す力の方が基盤的に重要なのではないだろうか。この力だけでも、できていない人が多いのではないかという気がしている。

"イノベーション"の定義について

曖昧な「イノベーション

 イノベーションイノベーションイノベーション、…、最近ではこの言葉があちらこちらに溢れている。科学技術政策の統括を行う、内閣府の「総合科学技術・イノベーション会議」においても、会議の名称にこの言葉が含まれていることから分かるように、「イノベーション」が重要視されている。確かに、日本が近年の新産業創出の波に乗り切れていないのは、世界の企業の時価総額ランキングの上位を新興IT企業が占めていることから示唆されることである。そして、人口構造の変化やアジア等の国家の躍進から日本の相対的地位が低下していくなかで、新産業創出が重要になってくるというのも確かである。しかし、これは本当に「イノベーション」で解決できる問題なのだろうか?

 正直、おそらくその見立ては間違っていないように思う。しかし、そういった議論が非常に胡散臭く感じてしまうのは、「イノベーション」という言葉があまりにも雑に使われ過ぎているからではないだろうか。「イノベーション」といえば、アップルがまず挙げられる。確かに、iPhoneは「イノベーション」と言っていいだろう。しかし、かつてのトヨタの「カイゼン」も「イノベーション」に含まれて良いのではないか。AmazonAmazon Dash Buttonを聞いたとき、これは非常に革新的であるとに感じた。これも「イノベーション」に含んでいいだろう。(この話は「Amazon Dash Buttonは何がヤバイのか – ところてん – Medium」を読んでなるほどとなった。)しかし、これら全てを同じ「イノベーション」という言葉で規定するは、雑な用語法だと感じないだろうか。

 要するに、「イノベーション」はもう少し類型化して捉えるべきだと思うのである。そして、それの総称として「イノベーション」という言葉を利用する。個別の議論においては、類型を念頭に置いた上で議論を積み重ねていかないと、生産的な議論にはならない。

NISTEPの4つの「イノベーション

 そんなことを考えていたときに、文部科学省科学技術・学術政策研究所第1研究グループによる『第4回全国イノベーション調査統計報告』という報告書を目にした。そのなかの「イノベーション」の4つの分類が、自分にとって非常に納得感のあるものであったため、下に引用しておく。

「プロダクト・イノベーション

 プロダクト・イノベーションとは、技術仕様、部品・材料、組み込まれているソフトウェア、使いやすさ、又は他の機能的特性といった点について、新しい又は大幅に改善された製品(商品)又はサービスの市場への導入を意味する。本調査でのプロダクト・イノベーションは、自社にとって新しいものと定義し、必ずしも市場にとって新しい必要はない。また、プロダクト・イノベーションには、新しい知識又は技術の活用のみならず、既存の知識又は技術の新たな利用や組み合わせに基づくものを含んでおり、既存の製品及びサービスであっても、機能的あるいはユーザ特性の点について、新しく又は大幅な改善があれば、それらはプロダクト・イノベーションに含まれる。しかしながら、製品の機能的特性あるいは用途の点で大幅な変化を伴わないデザインの変更や、ルーチン化されたアップグレードあるいは定期的・季節ごとに行われる変更は、プロダクト・イノベーションに含まれない。

「プロセス・イノベーション

 プロセス・イノベーションとは、新しい又は大幅に改善された生産工程又は配送方法の自社内における導入を意味し、技法、装置(機器)及びソフトウェアに関する大幅な変化もその対象とする。ここで、生産工程とは、製品やサービスの生産(提供)に用いられる技法、装置(機器)及びソフトウェアを指している。一方、配送方法とは、企業のロジスティクスに関係する方法であって、投入物を調達するための装置(機器)、ソフトウェア及び技法のみならず、企業内での物品の割り当て、あるいは最終製品の配送を含んでいる。本調査でのプロセス・イノベーションは、自社にとって新しいものであると定義し、自社が必ずしもこのプロセスを導入した最初の者である必要はない。また、プロセス・イノベーションは、付随的な支援活動(例えば、購買、会計、コンピュータ処理、メンテナンス)における新しい又は大幅に改善された技法、装置(機器)及びソフトウェアにも及ぶ。なお、本調査でのプロセス・イノベーションは、1単位当たりの生産コスト又は配送コストの減少、質の向上、若しくは新しい又は大幅に改善された製品又はサービスの生産あるいは配送、といった成果が意図されたものである。

マーケティングイノベーション

 マーケティングイノベーションとは、製品又はサービスのデザイン又は包装の大幅な変更、販売経路、販売促進方法、あるいは価格設定方法に係る新しいマーケティング方法の自社内における導入を意味する。ここで、製品又はサービスのデザイン又は包装の大幅な変更とは、製品又はサービスの機能性やユーザ特性の変更を伴わない形態や外見に関する変化を指している。販売経路とは、フランチャイズ・システム、直売・排他的販売、ライセンシング等の製品又はサービスの販売方法に関係する方法であって、輸送、保管及び取扱い(ハンドリング)といったロジスティクスに関する方法は含まれない。販売促進方法とは、製品又はサービスの販売促進に関する新しい概念(コンセプト)の活用であり、異なる媒体又は手法(例えば、映画やテレビ番組での製品及びサービスの露出、著名人による使用、新しいブランドの構築、ポイントカード等の個人向け情報システム)の初めての活用を指している。価格設定方法とは、製品又はサービスの販売に関する新しい価格戦略を指し、例えば、需要によって変動する価格設定やウェブ上での顧客の好みの製品仕様に応じた価格設定がこれに当たり、消費者のセグメントに応じて単に異なる価格を設定することは対象としない。また、定期的又はある一定の周期で行われるマーケティング手法の変更は、マーケティングイノベーションには含まれず、すでに自社内の他の製品で活用された概念(コンセプト)に基づくデザイン又は包装の変更や、地理的に新しい市場又は新しい市場セグメントの開拓のために行われた既存のマーケティング方法の活用は、マーケティングイノベーションに含まれない。

「組織イノベーション

 組織イノベーションとは、企業の業務慣行、職場組織又は社外関係に関する新しい方法の自社内における導入を意味している。ここで、業務慣行における組織イノベーションとは、業務の遂行に関するルーチンや手順を組織化するための新しい方法に関するものであり、企業内における学習や知識共有を促す新しい慣行の実施を含んでいる。例えば、知識の体系化(例えば、ベストプラクティスや講習等のデータベース化)や従業員への啓発や労働者の定着に向けた取り組み(例えば、教育、訓練システム)、製造全般又はサプライ・オペレーションに関する経営管理システム(例えば、サプライ・チェーン・マネジメントシステム、ビジネスリエンジニアリング、リーン生産、品質管理)がこれに当たる。職場組織に関するイノベーションは、従業者への意思決定権限の移譲や従業者による提案の奨励といった企業活動(組織単位)内及び企業活動(組織単位)間での業務分担に係る従業者間での責任又は意思決定の割り当ての新しい方法に関係している。社外関係に関する新しい方法は、他の企業又は公的機関との関係を構築するための新しい方法に関係している。例えば、研究機関又は消費者との新たな連携、サプライヤーとの統合に関する新しい方法、製造・調達・物流・求人・付帯サービスのアウトソーシングや下請けがこれに当たる。本調査での組織イノベーションは、経営戦略に基づいて実施された組織に係る新しい方法の導入であって、自社内で既に実施済みの方法は含まれない。また、合併や買収は、それが企業にとって初めて実施されたものであっても、組織イノベーションには含まれない。

地に足のついた「イノベーション」論に向けて

 上の報告書では、イノベーションを「プロダクト」、「プロセス」、「マーケティング」、「組織」の4つに類型化している。iPhoneはプロダクト、トヨタカイゼンは組織、Amazon Dash Buttonマーケティングに該当するだろう。これらを分けて認識することには、非常に納得感がある。細かく言えば、例えばプロダクト・イノベーションの「自社にとって新しいものと定義し、必ずしも市場にとって新しい必要はない」という記述は、対象を広く取りすぎてしまうのではないかという懸念はあるものの、4類型としてイノベーションを捉えること自体の有用性は損なわないだろう。類型化をして分析的に捉えることは、議論を複雑にしてしまう可能性はある。とはいえ、様々な要素を含むものを雑駁に議論することで有用な知見が創出されるとは思わない。他の議論においても、納得感のある適切な分析概念のもとで議論が進められて欲しいものである。

参考文献:文部科学省科学技術・学術政策研究所第1研究グループ[2016]『第4回全国イノベーション調査統計報告』(NISTEP REPORT No. 170), pp. 55-56.

Times Higher Education / Benesseと日本大学ランキング

 高等教育の関係者であれば既に耳にしたことかと思うが、THEがベネッセと協力をして行った日本版大学ランキングの結果が3月30日に発表された。とりあえず確認しておかなくてはと思って細かく見てみたのであるが、ところどころ気になる点が見つかった。そこで、そうした点を簡単にまとめておこうと思う。

1.THEとランキングビジネス

 まず、日本大学ランキングの英語版ページを確認してみると、「日本大学ランキングの計算はPwCという専門企業による独立の監査を受けている」と記述してある。あまり本筋とは関係ないが、こうしてランキング導出の客観性を担保しているらしい(だからといって恣意的な操作ができないわけではないだろうが)。個人的にほうほうとなった。
 その下部には、「大学のTHEにおけるグローバルな地位を上げるにはbranding@timeshighereducation.comまで」、「THEのランキングの背景にあるデータを知り、様々な分析・比較ツールを利用したいならdata@timeshighereducation.comまで」と書いてある。つまり、THEはランキングの背景にあるデータ分析をブラックボックスにして、そのデータとベンチマークを活用したコンサルティングビジネスを行っているのである。

2.日本版ランキングの評価指標

 では、ランキングの評価指標の妥当性について細かく検討してみよう。なお以下の記述は、日本大学ランキングの日本語ページ及び日本大学ランキングの英語版ページを参照している。  まず、ランキングの評価指標は、4つの領域に対して11の指標となっており、その内訳は以下の通りである。

領域 指標
A.教育リソース(38%)
どれだけ充実した教育が行われている可能性があるか
(1)学生一人あたりの資金(10%)
(2)学生一人あたりの教員数(8%)
(3)教員一人あたりの論文数・被引用回数(7%)
(4)大学合格者の学力(6%)
(5)教員一人あたりの競争的資金獲得数(7%)
B.教育満足度(26%)
どれだけ教育への期待が実現されているか
(6)高校教員の評判調査:グローバル人材育成の重視(13%)
(7)高校教員の評判調査:入学後の能力伸長(13%)
C.教育成果(20%)
どれだけ卒業生が活躍しているか
(8)企業人事の評判調査*1(7%)
(9)研究者の評判調査(13%)
D.国際性(16%)
どれだけ国際的な教育環境になっているか
(10)外国人学生比率(8%)
(11)外国人教員比率(8%)

表1:ランキング評価指標一覧(日本版サイトより筆者作成)

 データについては、

ランキングのデータは様々な情報源に基づいている。それらには、エルゼビア、ベネッセ、日経HR、日本政府及びTHE学術評判調査が含まれる。我々のデータは、大半の場合で標準化されており、それによりそれぞれの指標に与える数値を他の指標と適切に比べることができる。
Japan University Rankings 2017: methodology | THE Rankings

とされている。このほか、細かい評価方法は日本語版ページには記述がないところまで上記の英語版ページに記述されているため、適宜英語版ページを参照する。

 また、「今回のランキングでは全ての大学にデータ提供を依頼、協力した435校を評価対象とし、その中から150校の総合ランキングを作成した。さらに、評価指標の4つの分野それぞれについても150校をランキングした結果、計298校の大学名を世界に発信することができた」とされている。(「THE大学ランキング 日本版」、次年度は学生調査の導入をめざす | 大学改革を知る | Between情報サイト)基本的にランキングの上位にランクすることによる威信獲得の可能性がある大学は全て参加しているだろうが、現存の777大学のうち評価対象は435に過ぎないのは注意が必要かもしれない。

 ではここから先は、それぞれの評価指標について細かく見ていく。

2.1.教育リソース(38%):どれだけ充実した教育が行われている可能性があるか

(1)学生一人あたりの資金(10%)

 一般に大学の役割は教育/研究/社会貢献の3つと言われている。大学の資金はこれの3つに投資されるのであるが、このうちどの程度の割合が教育に投資されているのかを計算することは極めて困難である。そこで、全体の資金を学生数で割ってみるわけであるが、この指標がどれだけ適切であるのかは明らかではない。

(2)学生一人あたりの教員数(8%)

 教育の質の代理指標としてはある程度の意味を持つと思いながらも、大学によってはセンター等で研究専任の教員を多く持っている場合があり、単純に学生/教員比率が実際の教室における学生/教員比率を表しているわけではない。履修者総数/講義数を計算したらより適切な値が算出できそうな気がするが、計算の手間がかかりすぎてしまうだろう。

(3)教員一人あたりの論文数・被引用回数(7%)

 情報源についての記述を見るに、恐らくこれはエルゼビアのScopusに基づいて算出されていると思われる。Scopusには日本の学術雑誌はほぼ再録されていないし、日本の書籍など全くないと言っていいと思われる。英語圏の英語による学術雑誌を基本にした医学や生物学等の分野ではそれでも問題はないが、日本の大学の研究力全体を考える際には、不適切な指標だと考えられる。

(4)大学合格者の学力(6%)

 おそらく進研模試の偏差値データを活用していると思われる。推薦入試の割合を高めて一般入試の偏差値を高める偏差値ハッキングなどはよく知られるところで、偏差値のランキングがどれだけ適切なのかは疑う余地がある。また、進研模試の受験層として高学力層が抜けているのではないかというのは、駿台全国模試や河合塾全統模試と比べた進研模試の位置づけとして推測できる。

(5)教員一人あたりの競争的資金* 獲得数(7%)

内閣府ホームページ「競争的資金制度」に掲載のある「平成27年度の制度一覧」のうち、文部科学省が主管している競争的資金制度を対象とした。
 これはまあある程度適切な指標であるように思う。

 教育リソースを元にランキングを並べてみると、医科系単科大学が上位に来ることがわかる(例えば医科歯科大学がトップに来る)。これは、医科系の分野は基本的に一つ一つの研究にそれなりの資源を投ずる必要があるため、科研費等の競争的資金の獲得数が多く、その単価も多いなどの要因が作用していると考えられる。また、算出の方法が不明であるので正しくはわからないが、病院の医師が教員数のなかに含まれている可能性もあるのではないかと思う。

2.2.教育満足度(26%):どれだけ教育への期待が実現されているか

(1)高校教員の評判調査*:グローバル人材育成の重視(13%)

*(株)ベネッセコーポレーションが高等学校の進路担当教員を対象に「大学に関する印象調査」を実施。卒業生からさまざまな情報を集めて多くの高校生に進学のアドバイスをしている進路担当教員の意見により、見えにくかった大学生の満足度を推し測ることができる。
 教育満足度の評価として、グローバル人材でいいのだろうか。仮に良いとして、高校教員に本当にそれを判断する能力が備わっているのだろうか。

(2)高校教員の評判調査:入学後の能力伸長(13%)

 能力伸長という観点を設けたことは評価できる。というのは、大学教育の成果は入学時点の能力と卒業時点の能力の差分で評価されるべきだと考えるからである。しかし、問題は高校教員にそれを判断する能力があるのかということである。普通に考えて、まず自分が担任をした学生でなければ卒業時の能力を把握しているなんてありえないし、仮に把握していたとしても自分の担当の教科に限られるだろうし、ましてや大学卒業時の能力を把握しているなどありえないと言っていいのではないだろうか。

 なお、この調査は「2400の高校の進路指導担当」に対してそれぞれ「上位の15の大学を挙げる」という形式で行われている。この評価は大学のネームバリューや自分がお気に入りだと思う学生のイメージなどによってバイアスをもたらすことが容易に推測され、指標としての頑健性はあまり期待できないように思う。

2.3.教育成果(20%):どれだけ卒業生が活躍しているか

(1)企業人事の評判調査*1(7%)

*1(株)日経HRによる「企業の人事担当者から見た大学のイメージ調査」。卒業生の活躍を多面的に評価。
 卒業者の人数や大学のネームバリューによるバイアスがかかるのが推測されるのは言うまでもない。

(2)研究者の評判調査*2(13%)

*2「THE世界大学ランキング」において高等教育機関研究者を対象に「教育力の高い大学」を調査。
 世界の高等教育機関において、どれだけ日本の大学卒業生が認知されているのかが謎である。サンプル数が少ないならば、適切な判断を行うことはできないだろう。

2.4.国際性(16%):どれだけ国際的な教育環境になっているか

 個人的にはこの点が一番気に食わないところで、英語版ページでは領域名が「Environment/環境」であり、その説明として「それぞれのキャンパスにおける学生と教職員集団の構成」を見るものであり、「学生が多様で協力的で包含的な大学環境のもとにいられるかを判断する手助けになる」とされている。この観点自体は大切だと思うものの、それを判断する指標が以下の二つで良いのかと思われるのである。

(1)外国人学生比率(8%)

 外国人留学生を日本人で定員が充足できないがために入れるということを行っている大学も一定数あるのではないかと思われる。アメリカにおいても中国人留学生が増えすぎて授業が成り立たなくなるということは以前から問題化しており、単純に外国人学生比率が多いのが教育の環境の良さを示すわけではないこともある。

(2)外国人教員比率(8%)

 この点について詳細はわからないが、「外国人教員」の定義はどうなっているのだろうか。外国籍であるなら問題はないが、外国で学位を取った日本人を増やすことで定義上外国人教員を増やすことは日本の大学改革においてしばしば行われてきたことである。

3.全体を通して

3.1.総合指標の意味の無さとランキングビジネス

 はっきり言って、こうしたランキングで総合指標を見ることは何の価値もない。あるいは、学部や学科単位ならまだしも、大学という単位で見ることは意味がない。そもそもそれぞれの指標の信頼性が十分なものではないし、ましてやそれを合成する正当性などない。いくら標準化をしたからと言っても、どういう方法で標準化したのかはわからないし(例えば立命館アジア太平洋大学は国際性領域で100.0のスコアであるが、それがどう計算されたのかはわからない)、それぞれの指標をどのように重み付けするかは恣意的なものでしかない。しかし、そんなとんでもない数値化を、あたかも実態があるかのように扱われてしまうという恐ろしい時代になってしまった。
 計算がブラックボックスにおかれているには理由があって、冒頭に述べたように、そのブラックボックスの数値と他組織間比較の分析ツールを提供することで、大学へのコンサルティングをビジネスにするのである。個別的なそれぞれの指標とその比較は個々の大学の位置づけを認識するために有用であろうが、こんな使われ方をされるくらいなら、もう大学教員は一致団結してランキングサボタージュを行った方が良いのではないかとも思えてくる。

3.2.ベネッセのしたたかさ

 上と同時に感じたものが、ベネッセのしたたかさである。日本語版ページは「THE世界大学ランキング 日本版|日本の大学の教育力ランキング」となっており、ページ下部に薄い色で小さくBenesse Corporationと(ほとんど見えないように)書いてある以外は、基本的にベネッセは影が薄い存在となっている。THEのパートナーとしてランキングを発表しているにも関わらずである。
 しかし、ランキングに位置する大学は(あるものは)ベネッセマナビジョンにリンクされており、そこから資料請求ができるようになっている。おそらく、資料請求をすることによって大学から広告掲載料が入るのであろう。それに加えて、メニューとして「実践事例・ピックアップ」というものが何気なく含まれている。これはどう考えても広告掲載であろう。
 ということで、ぼんやりとしていると気配を感じさせないものの、さり気なくランキングから派生する広告を仕込んでいる。もちろん営利企業なのだから当然のことではあるが、したたかなものよと感心させられたものである。

AIが人間の仕事を奪う?論文について

1.はじめに

 最近、「AIによって○○年後に○○%の仕事が失われる」としばしば語られる。多くの機会で枕詞のように語られるこれは、わかりやすくセンセーショナルな主張にすぎないと思っている。それに応じて、学生のキャリアについて語るときに、「○○年後には○○%の仕事が失われるんだ、では君たちはどうやって生きていく?」というフレーミングがされる。確かに、そのように考えることの重要性を全否定するわけではないが、この前提が問われることがないことには非常に違和感を抱く。誤った前提に基づいて導き出される結論は、当然誤ったものになるのである。そこで、今回はこうした主張が行われるもととなった論文を確認することにした。

2.対象論文について

 私の確認した限りでは、こうした議論の発端になったのは、オックスフォード大学のCarl Benedikt FreyとMichael A. Osborneの論文、‘The Future of Employment: How Susceptible are Jobs to Computerisation?’のようである。これは、2013年に発表されたのであるが、いわゆる学術雑誌の論文ではなく、一般向けに報告書として公開されたものだ。全72ページではあるが、末尾は検討された職業の一覧であり、本文は45ページ分である。

2.1.データ

 分析に利用されたデータは、まず米国労働省のO*NETのデータである。これは、903の職業について詳細な記述がされている。それに加えて、労働省のStandard Occipational Classification(SOC)も利用している。こちらの方は、賃金データ等も揃っている。この論文においては、双方が対応するものにデータを限定して、702の職業を分析対象にしている。

2.2.分析方法

 論文の分析は、(1)教師データの選定、(2)モデル化、(3)モデルの適用の三段階で行われている。

(1)教師データの選定

 まず、機械学習の研究者とともに、機械で代替可能/不可能であると確信を持てる70の職業を主観的に判断する。機械で代替可能ものを1、不可能なものを0とし、これはO*NETのJob Disctiptionにもとづいて判断された。

(2)モデル化

 "Perception and Manipulation"、"Creative Intelligence"、"Social intelligence"の3つを機械化にあたってのボトルネックだと定めた上で(p. 24)、データから3つのボトルネックに対応する変数を抽出する。 f:id:futaba_szk:20170222175057j:plain 出典:p. 31

 そして、教師データとした70の職業について、上記の変数と機械の代替可能性(0 or 1)が対応するようなモデルを設計する。

(3)モデルの適用

 上記のモデルを、702の職業全体に適用する。分析結果は、0-0.3をLow、0.3-0.7をMedium、0.7-1.0をHighに分類すると、それぞれ33%、19%、47%で、ここから代替される可能性のある職業が47%と言われた。 f:id:futaba_szk:20170222175217j:plain 出典:p. 37

3.分析結果をどう見るか?

 このように、論文を詳細に見てみると、いくつか解釈の余地があると感じられる。

3.1.データの問題

 まずは、データの問題である。分析対象になっているのが、O*NETの903の職業のうちの702であるが、職業へのインパクトを考えるのであれば、職業数ではなくその比重も考えなければならない。そもそも903と702で、除かれた職業が労働者が極めて多いものであるのかもしれないし、分析対象になった703のうちでもそれは注意すべき点である。すなわち、702の職業のうち47%で機械による代替可能性が高いからといって、47%の労働者が代替可能性の高いものであるとは言えないのである。
 次に、分析に利用した変数の妥当性が気にかかる。個別の変数と代替可能性の散布図を見てみると、以下のようになる。 f:id:futaba_szk:20170222175202j:plain 出典:p. 35
 もちろん、単純に線形相関をすると考えるのは正しくないのであるが、個人的には下3つの散布は気になる。そこで、下の3つ、"Perception and Manipulation"(知覚と操作)にあたる変数を詳細に見てみると以下のようになる。

O*NET 変数 O*NETの記述
指の器用さ 非常に小さな物体を掴む、操作する、あるいは集めるために片手または両手の指を精密に調和させて動かす力
手の器用さ 物体を掴む、操作する、あるいは集めるために片手や、片手と腕、両手を素早く動かす力
窮屈な労働空間、不格好な姿勢 その仕事では不格好な姿勢になることを強いる窮屈な労働空間で働くことをどれくらい要するか

出典:p. 31より作成

 なんというか…よくわからない。とりわけ、3つめなどよくわからない。"Creative Intelligence"や"Social Intelligence"の内容はまあ理解できるのだが、上記の"Perception and Manipulation"にあたる3つに関しては、なぜこれを機械の代替可能性の指標とするのだか、はっきり言って理解しがたい。

3.2.結果の解釈について

 この論文における結論は、あくまでも現状の702の職業カテゴリのうち、47%では機械による代替可能性が高いというものにすぎない。まず言えるのは、その職業区分が妥当かということである。単純に考えて、1つの職業区分には、代替可能性が低いとされたものでも、機械に代替できるような作業は含まれているだろう。すると、職業単位で代替されそう/されなさそうと考えるのもいいが、職業区分内で部分的に機械化がされるかもしれないという観点から考えることもできる。
 次に、これまでも職業は新たな技術によって代替されてきた。その当たり前のことを念頭に置く必要がある。そしてその時に起こったのは、新たな技術に合わせて新たな職業が生まれてくるということである。AIの場合はこれまで以上に機械化の速度が早いということも考えられるが、単純に数値だけを見て悲観的になるのは不適切だと思われる。

4.最後に;「AI vs 人間?」

 AIが仕事に影響を与えるのは間違いないであろうと思われるが、しかし、「AI vs 人間」というフレーミングは間違っていると考えている。AIには汎用AIと特化型AIと呼ばれるものがあるが、現状の技術は特化型のものに過ぎず、人間の与えたアルゴリズムの制限ないの最適化装置とみなすのが適切であろう。そうすると、AIにどういう分析を出力させるか、あるいはその結果をもとに人間がいかに判断するかということがしばらくの要点になる。そういった状況においては、結局「丸腰の人間 vs AIで武装した人間」というフレームで今後の世界を考えていくのが適切であると考えている。

音楽教室における著作権料徴収問題

 友人に音楽関係者が多いということがあって、最近話題になっているJASRAC著作権料徴収問題に関心を持っている。Twitterのタイムラインではあれこれ発言をしているひとがいたりとか、FBでもいくつか関連するポストを見かけたるりするけれども、どうも地に足の着いた議論が弱いような印象が強い。ただ、そんなことを言っていられるのも、自分が部外者だと思っているからかもしれないし、JASRACの現実的な実務的問題性について知らないからかもしれない。だから、以下はそんな立場の人間からの見方だと思って読んでもらえればいいと思う。

 各種の議論に目を通してきたなかで、個人的にわりと落ち着いた議論がなされていると感じられるのが、以下の四つである。
JASRACの外部理事を務める東大・玉井克哉教授(知的財産法)による大手音楽教室から著作権料徴収についてのQ&A - Togetterまとめ
 この一つ目については、いくつか論理的に疑問を抱かざるを得ないところも散見されるけれども、JASRACの組織のあり方を内部から主張するものとして、しっかり把握しておく必要があるものだと思う。

JASRAC vs 音楽教室:法廷で争った場合の論点を考える(栗原潔) - 個人 - Yahoo!ニュース
音楽教室とJASRAC: benli
還元の要否に関する原則と例外: benli
 この二~四つ目については、JASRACが音楽教室の指導において著作権を徴収することが妥当であるかについて、法的に吟味しているいい文章であると思う。

望ましいと思う議論のプロセス

 それでは、どのようにこの問題を見ていくのがいいかと考えると、まず現行法における理論的妥当性を吟味して、法的に妥当でなければ話はそこで終わりだし、妥当であれば実務的な妥当性を吟味して、実務的に問題があるならば方法を再検討して、理論的にも実務的にも妥当であるけれども、文化保護などの側面で問題があるならば、現行制度の変革を検討するというプロセスで進めればいいのだと思う。こんなことを言うのも、理論的妥当性及び実務的妥当性を考慮せずに、ただ反射的に反対を叫ぶのは、時間の無駄であるし長期的に見て音楽文化の保護にはつながらないと考えるからである。

現行法における理論的妥当性 現行法における実務的妥当性 文化保護問題 対策
× 徴収不可
× 方法の再検討
× 文化保護のための対策の検討
問題なし

×→妥当性なし、問題あり

(1)現行法における理論的妥当性

 この観点から吟味されるべきなのは、著作権法上の規定から、音楽教室から指導における著作権行使に対して著作権料を徴収することが理論的に妥当かどうかである。例えば、音楽教室が非営利活動に当たるのか、指導において著作権を行使しているのか、などである。
 前者については、確かに財団法人等の非営利組織は検討が必要なものの、株式会社のものについては擁護はできないだろう。後者については、まず楽譜における著作権(これは複製権の範疇である)に演奏行為が含まれないのは当然だろう。音楽教室での演奏を著作権法上の「聴衆」への演奏と規定できるかは難しい点である。教室では演奏行為に対してではなく指導に対して営利活動を行っていると言われたとしても、その指導の中身に演奏行為が含まれている以上、演奏行為に対して営利活動を行っているとみなすのが妥当であるように思う。ただ、断片的な演奏を演奏をみなせるのか、あるいは「引用」行為とみなすことはできないかなどは検討が必要である。
 法的に著作権の行使が認定できないのであれば、そもそも問題は起こり得ないのであって、まずは理論的な吟味が必要である。

(2)現行法における実務的妥当性

 理論的には妥当であるとしたら、次にそれが実務的に妥当であるのかという点が考慮されるべきであろう。これは、例えば2.5%の定率徴収が妥当であるのか、徴収をしたものの還元が適切に行われているのかどうか、組織活動に対するコストが適切な水準に留まっているかどうか、などである。色々と悪い噂は聞くわけではあるが、JASRACは零細な、個々レベル権利の行使が困難な権利者が組織化することで権利の行使を担保していることはしっかりと認識されるべきであって、法的に妥当な行為を行っている限りでは倫理的に批判する(例えば「音楽教室から著作権を徴収したら音楽文化を破滅させる」という主張)のは筋違いであるように思う。これは(3)で述べる。

(3)制度変革の検討

 理論的に妥当であり、かつ実務的も妥当であるけれども、それが文化的に問題をきたすというならば、制度変革を検討すればよい。例えば、フェアユースを規定するなどである。この時、部分最適ではなく全体最適を考えることが重要であるように思う。音楽教室から著作権料を徴収することが音楽文化を衰退させると思われるとしても、もしかしたら著作権料の支払いをしないことで音楽教室はその分を自分の利益に転嫁しているのかもしれないし、あるいはそもそも音楽教室から著作権料を徴収することによって音楽文化が衰退するとしたら、それは非営利組織における音楽文化活動が貧弱すぎるのが理由なのかもしれない。
 最近は音楽でも、活字でも、ゲームでも、あらゆるコンテンツで著作権が問題になっている。同人誌文化を見る限りでは、ある意味では著作権の行使が曖昧であるからこそ文化が活性化されるという側面もあるかもしれないが、まともに創作活動を行っているひとにその対価が行き渡らないのは由々しき事態である。音楽文化は大切だと思っているからこそ、全体の制度、環境としてどうすれば全体最適になるのかという観点から議論が深められてほしいと考えている。

見出しのカスタマイズ

このはてなブログ、Handwritingというテーマを利用しているのだけれど、デフォルトでh1-4まですべて同じ表示(しかも謎のリボンが冒頭につく)という仕様になっていて、階層が不明でイライラするので見出しをカスタマイズしてみた。 正直あまり気に入っていないものの、マシにはなったのでひとまず良しとしておこう。

なお、この編集はデザイン→カスタマイズ→CSSでできる。

見出し1

.entry-content h1{
color: #524336; / 文字の色 /
font-size:150%; / フォントの大きさ /
font-weight:bold; / 太字 /
line-height: 1.5em; / 行間 /
border-top:1px solid #524336; / 上線 /
border-bottom:1px solid #524336; / 下線 /
border-left:10px solid #524336; / 左側の線 /
margin: 70px 0 10px 0; / 上下の余白 /
padding:10px 10px 10px 10px; / テキストとボーダーの間の余白 /
background:#ffffff; / 背景の色 /
}

見出し2

.entry-content h2{
color: #524336; / 文字の色 /
font-size:130%; / フォントの大きさ /
font-weight:bold; / 太字 /
line-height: 1.5em; / 行間 /
border-bottom:1px solid #524336; / 下線 /
border-left:5px solid #524336; / 左側の線 /
margin: 40px 0 10px 0; / 上下の余白 /
padding:10px 10px 10px 10px; / テキストとボーダーの間の余白 /
background:#ffffff; / 背景の色 /
}

見出し3

.entry-content h3{
color: #524336; / 文字の色 /
font-size:120%; / フォントの大きさ /
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見出し4

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社会問題における「教育万能論」批判

はじめに

 社会問題について複数人で議論をするとき、解決策として「教育で取り組めばいい」という主張がはびこることが多い。確かに、人々にマクロにアプローチする上では、教育が高い影響可能性を持っているという事自体は同意できるものの、しかしそれほど楽観的に見られるわけではないという直感があった。もちろん、そこまで考慮した上で発言をしている人もいるとは思っているけれど、背後に抱いていた違和感を整理してみた。
(※なあ、ほぼ昔書いた文章を引っ張ってきただけなので、文体が変な気がしますがご了承ください笑)

背景にある「欠如モデル」

 科学コミュニケーションの分野で提示されているコミュニケーションモデルに、「欠如モデル」というものがある。これは、知識の欠如によって合理的な行動が取れないとされる対象に対して、知識を教えこむことで問題を解決するという視点である(Ex. 知識の欠けた素人では科学的判断ができないために、専門家は科学的知識を教えこむ必要がある;Cf. 藤垣裕子・廣野喜幸編著『科学コミュニケーション論』東京大学出版会、2008)。上辺だけの教育論議に対しても、この科学コミュニケーションの例と同様の傾向が見受けられる印象がする。

教育方法の問題

 教育理念を決めたとしても、それを実際にどう教えていくかまで提示することは難しい。確かに、教育関係者は特定の教育理念を達成するために不断に努力をしていると思うのだけれど、それを実現できるかというと多少の疑問を抱く。それは「ゆとり」論議においてそうだし、そんなに上手くいくなら大学教育によって大学生はみんな「コミュニケーション力」がついているだろう。

教育システムの問題

 方法の問題に加えて、ある教育理念を実現するような教育方法が開発されたとしても、それを実行する教員もそれを受ける生徒も多様であるという現実がある(このへんの意見は偏っているかもしれない、一方向の観点だし)。教員の熱意の方向も、性格も、スキルも、教育観も異なるなかで、かつ多様な生徒の状況に合わせて教育を行っていかなければならない状況で、どれだけ効果的な成果を得られるのだろうか。

生徒の問題

 上の問題に付随するけれど、生徒の側が同質的な価値観に染まるというのはありえない。どのような実践であっても、価値観であっても、そこから逸脱するベクトルを持った人間は存在する。そもそも、みんな同じになってしまったら、逆に不健全ではないだろうか。「共生なんて必要ない」という考えを持ちそれを主張する人がいるからこそ、共生の重要性が認識されていくということはあながち間違いではないのかもしれない。

理想と生活の論理の相克

 もし教育の成果として望ましいとされる倫理規範を内面化したとしても、生活の論理によってそれが実行されないということもある。生きていかなきゃだとか、家族を養うことを考えると、そうせざるを得ないということが多い。

さいごに

 上にいくつか「教育万能論」の限界を指摘してきた。とはいえ、教育には何も出来ないと言いたいわけではなくて、上記のことを考慮した上でも教育は非常に重要な要因であり、上に挙げた限界をきちんと認識した状態で教育に関わる人が努力してくれることは、この上ない価値があると思っている。

おまけ

 「コミュニティ万能論」も同じように見れるかもしれない。「コミュニティ」を抽象表現で捉えないで、コミュニティの崩壊が叫ばれる今だからこそ、再生というよりは再構成が大事なのかもしれない。地域で一括りにされる一つのコミュニティなのではなくて、利益集団、血縁集団、地域サークルなど重層的なコミュニティで捉える のが現実的なのではないだろうか。個人的に、この辺りで興味深いと思うのはNPO法人豊島子どもwakuwakuネットワーク練馬ママ漫画ルーム「よんこま」のような動きである。

教育と経済をめぐるあれこれ(170101 ver.1)

1.はじめに

 わたしはこれまで統計について基礎的な勉強をしたり、教育経済学の論文を読んだりしてはきたものの、実際に研究として活用したことはない。とはいえ、教育を経済の観点から見ることは非常に重要だという考えは常に頭の片隅に置いてきた。ただし、教育と経済の関係は非常にデリケートで、解釈に難しいものが多くあるという印象も抱いてきた。今回は、これまで考えてきたことについて、自分が考えていることを整理しておこうというものである。なお、以下では高等教育が念頭にあるが、概ね教育全般に適用できる議論であろう。

1.1.これまでの議論への違和感

 教育と経済について語るとき、「教育への投資を増やすべき」/「教育に投資する必要などない」という主張がアプリオリにあって、それを補強するための手段として統計的データが使われることが多いという印象を抱いている。それは、日本において教育の経済的研究が悲しいほど蓄積されていないということや、教育が個別的な経験をもとに一般化して語られやすいということがあるように思われるが、それに加えてデータやその分析の結果をいかに解釈するかが非常に難しいという点にも由来すると考えている。高等教育への教育投資を増やしたいものにとっては、データに基づいた主張は、学問の親和性が高く経験的に大学の存在を好意的に評価したいもののポジショントークである可能性がある。よくある「諸外国と比べて」という言葉についても、確かにそれはなんとなく説得的のように聞こえるかもしれないが、少ないということは増やすべきということを含意しない。むしろ諸外国との比較を取り出して、それだけをもとに同じ水準にすべきという言説は、単なる思考停止とも感じられるのである。
 そこで、今回は自分が「学問の親和性が高く経験的に大学の存在を好意的に評価したいもののポジショントーク」となる可能性に注意しつつ、できるだけフラットに、先入観を排除した形で教育と経済の関係を考えるための枠組みについて考えてみることにする。

1.2.功利と権利

 教育に対する投資を正当化する論理には、功利の側面と権利の側面があると考えている。前者は、教育を受けるとそれだけ収益が上がるということだ。この点については下で詳述するが、教育経済学で教育投資について考えるときは、主にこの側面から分析がなされる。後者は、人間(国民)には、教育を受ける権利があるという考え方だ。教育を受けたいから、受けることが保証される。個人的には、高等教育を受けることが多くのひとにとって当たり前になってきた今の社会では、もう少しこの考え方が普及してもいいのではないかと考えている。この点については強調しておきたいが、しかしそれだけでは教育にかかるコストを無限に肥大化させ、現実的なものではなくなってしまう。そこで、権利としての教育を実現するための功利としての教育の側面を検討する必要がある。すなわち、権利としての教育を保証するために投資をしなければならないのはどこなのか、あるいはどのような投資をすれば効率的に教育の効果が達成されるのか、といった点である。功利と権利という両方の側面が補完的に検討されることで、現実的に可能な限りの理想的な教育を考えられるのではないだろうか。

2.教育と経済を見るときの留保点

 さて、具体的な話に入る前に、教育と経済を見るときに重要となる二つの留保点について取り上げておこう。

2.1.教育と成果

 「教育の成果は数字では測れない」と言われることは多くあるように思う。これは確かにそういう側面もあるものの、測れるものと測れないものを切り分け、それらを考慮に入れつつ個別の研究の成果を見極めていくのがより必要な姿勢だと考えている。例えば、経済的なもの/非経済的なもの、短期的なもの/中長期的なもの、の二軸で整理するだけでも、かなり整理されるように思う。また、例えば大学での教育成果を考えるのならば、大学教育でできること/できないこと、非大学教育でできること/できないこと、という二軸を設定して、「大学でできて非大学でできないこと」あるいは「大学と非大学でともにできるが、大学の方が効率性が高いもの」の二つに注目することは大切なことであるだろう。

2.2.計量分析と多様性

 計量分析は、全体の傾向性をあぶり出すという点では有用であるが、その分析にあたって捨象されるものが何であるのかはきちんと念頭においておく必要がある。日本の高等教育を考える上では、専門学校(専修学校専門課程)をどう扱うかは吟味が必要な点であるし(専門学校は高等教育政策全体でも「残余」として扱われてきたきらいがある)、大学としても、多様な大学を「大卒」とくくるのが妥当なのかという点は難しい点である。統計が集団として平均的な傾向を示すものである以上、集団の上位と下位では傾向が成り立たないことがある。例えば、大学進学の収益率が平均的にプラスであっても、BF大学に進学することは収益率がマイナスになるかもしれない。こういう場合は、当初の集団からより細分化することで精度の高い分析を行うことができるが、まずどういう軸によって集団を分割するかは熟慮が必要であるし、またそれによって結果が複雑なものになるデメリットはある。また、集団が大きすぎると、あることが傾向として推測されても、その背後にある論理が異なったものである場合がある。
 計量的な分析が有意義な知見をもたらしうるというのは事実だと思うが、それはきちんとした研究デザインができるならばという留保付きであるだろうし、それに加えて、全体集団/部分集団の計量分析とそれに対応する質的研究とが相互補完するようになることも不可欠であるだろう。「使えそうなデータがあって、それを統計で分析してみて、なんとなく論理的に考えてみる」では、決してまともな知見が得られるはずがなく、むしろ歪んだ現実を発見するだけである。

3.教育と経済についての分析的検討

 ここからは、これまでの教育の効果をめぐる研究について、どのような枠組みで分析されてきたかを整理したい。なお現状での考えに過ぎないので、今後より精緻に検討していきたいと考えている。

3.1.静的モデル

 「静的」のカテゴライズは、これ自体として意味があるというよりは、3.2.動的モデルで批判するために設けたものである。よって、そちらを見てほしい。

3.1.1.経済的便益

 許育の便益には、経済的便益と非経済的便益があると考えられる。論文などでの分析では、計量的な把握がしやすいというのもあって、経済的便益をもとにして分析がなされることが多い。

3.1.1.1.個人的便益

 個人的便益を考えるとき、代表的なのは生涯所得の差である。「高校卒業後に高卒で就職した際の生涯賃金」<「大卒で就職した際の生涯賃金-(大学進学の費用+大学進学の機会費用)」となるとき、大学に進学することの便益がプラスであると考える。この分析は王道のものであるが、前述した平均と個別の考慮が必要であると思われる。
 ただし、個人的便益を精緻に認識することは非常に難しい。というのも、生涯賃金が上昇したとしても、それが大学教育による能力向上の効果なのか(人的資本理論の見方)、単なるシグナリングに過ぎないのか(シグナリング効果の見方)がわからないからである。すなわち、大学教育によって何らかの能力が獲得され、それが生産性を向上させることによって生涯賃金が増えるのか、単に(特定の)大学に入学したということがそのひとは一定水準の能力が高いというシグナルになり、(極端に言えば大学での能力向上がゼロだったとしても)そもそもの高い能力によって生産性が高いために生涯賃金が増えるのかの判別をつけることができない。
 また、能力向上が起こったとしても、それの要因が何なのかによって政策的な介入の方法も変わってくる。教育の効果なのか、環境の影響なのか、社会関係資本の寄与なのか、遺伝によるものなのか、はたまた非認知的能力が要因なのか。教育段階によってもこれらの要因の寄与の程度は変わってくるだろう。
 そして、労働をめぐる状況は供給のみによって決まるわけではない。すなわち、労働者を受け入れる側がどれだけ需要をしていたのかにも依存する。数年単位ではあまり変化はないかもしれないが、数十年単位ではそもそも評価されるものが変化し、「能力」の中身が変容していくこともありうる。
 以上のように、生涯所得の差が現実として生じるとしても、それが本当に大学での教育の効果であるのかを見極めるのは非常に難しい。この点はきちんと踏まえておく必要がある。

3.1.1.2.社会的直接便益

 教育の経済分析に抜けているのが、この「社会的直接便益」と、後者の「社会的間接便益」の視点である。この点については、矢野眞和先生がしばしば指摘している。単純に考えると、生涯賃金が増えるのならば、その分だけ納税額も増え、それは社会的便益となる。そうすると、「大学進学によって個人に利益が出るのならば、それは個人で負担すべき」というのは不適切な認識であるということになる。むしろ、教育投資が過小であれば個人的便益の一部を税金として徴収することで、社会としては個人から収奪を行うということにもなりうるのである。
 現実としてどうなっているかはわからないが、少なくとも高等教育への投資効果は、個人的便益に限られるものではないかもしれないという考えは一般的に広がっていくべきだと思われる。

3.1.1.3.社会的間接便益

 これはより計量的把握が難しいため、基本的に分析で考慮されることはないものである。例えば、治安の向上、大卒者が増えることで特定のスキルを広範囲に活用できるようになるネットワーク効果、留学等で海外との交流者が増えることによる外交関係や企業活動への影響などである。これらを実証的な研究で緻密に証明できるとはあまり思わないが、無視してはいけない点であると思う。

3.1.2.非経済的便益

 これは社会的間接便益と重ねて不明瞭なものであるが、例えば民主主義の定着があるかもしれない。民主主義が定着することは、国家の安定性をもたらし、国民に便益をもたらす。非常に論理が怪しいが(そもそも大学の教育の効果によって民主主義は定着するのか)、理論的に大学がもたらす非経済的便益を考えることは有益であろう。
 なお、アメリカでの数々の調査が示すように、おそらく大学の教員にはリベラルな思想の持ち主が有意に多いと思われる。そうすると、大学がリベラルな思想の人間を再生産する牙城ともなりうるという意味で、特定の(リベラルの)利益に与する場と見られても致し方ないとも思われる。

3.2.動的モデル

 動的モデルについてはまだあまり深く考察を勧められてないが、考える発端をもたらしたのは「大学進学は生涯賃金の増加とそれに伴う社会的便益の増加をもたらすから、大学進学に政策的に投資すべきである」という主張に対する違和感であった。確かに、平均的に見てみればそうかもしれない。しかし、それは分析時点の静的な社会構造に依存するものに過ぎないのではないか。すなわち、大学進学に政策的に投資し、大学進学比率が大幅に変わったときに、賃金上昇はどうなるだろうか。単純に考えれば、大卒の供給が増えれば、相対的に「下層」に位置する大卒者の賃金は高卒とそれほど変わらないかもしれない。仮に大卒者と高卒者が「補完材」的に働くとすれば、大卒者が過剰供給になることで生産力はむしろ低下するかもしれない。
 これらはあくまで想像にしか過ぎないが、ある特定の知見から導き出される主張に沿って何らかの対策を施したとき、基盤となった知見の前提自体を変容させ、期待した効果が得られないかもしれないということは考える価値のあることであるだろう。

初投稿。

今度こそブログを書くんだと思いつつ、またもやブログを作成してから1ヶ月が経ちましたふたばです(平常運転


ふたば
高等教育と学術政策に関心があります。
ゆるゆると考えたことや、調べたことなどについて書いていこうと思います。
かつての大学受験ブログは毎日マメに更新していましたが、その後は(4回くらい)うまくいった試しがありません。
1ヶ月に1回くらいはゆるゆると書くようにしていきたいと思っています。よろしくお願いします。

*追記: 早速Markdown記法に慣れないで戸惑うなどw(改行ができなかった