ふたばの日記

高等教育や学術政策に関心がある大学生のブログです。考えたことのメモなど。

箕面市調査と教育研究の可能性

 ここ最近、箕面市の調査が自分のTwitterのタイムラインで話題になっていて、どういうことなのかと思っていたのだが、どうやらこれ(「貧困状態の子どもの学力は10歳を境に急激に低下」-日本財団ブログソーシャルイノベーション探訪)のことであるみたいだ。先日、日本財団主催のソーシャルイノベーションフォーラムフォーラムというイベントが開催されて、そこでそうした研究に関する発表があったらしい。

1.調査の概要

 この研究は、「箕面市が子どもの貧困を支援するために構築した『子ども成長見守りシステム』により、箕面市に住む0歳から18歳までの全ての子どもを対象に、2014年上半期から2016年下半期まで3年間にわたって集められたデータを日本財団が分析した」もので、「市の個人情報保護条例で目的外使用が禁止されているため、条例を改正し、心身の保護、生活の維持の目的に限定して目的外使用と外部利用提供を認めるようにし」て、「市役所内で散在しているデータを一覧できる形に」することによって実行されたとのこと。(上記Webサイトより)

 確かに、研究者だらけのタイムラインで話題になるだけあって、興味深いと思いながら上記の文章を読ませてもらった。興味深いと感じたのは、調査結果というよりもその手法に関してである。

2.箕面市調査の社会的意義

(1)これまでの調査の限界

 これまでの教育調査では、概して①サンプリングの問題、②個人情報保護の問題、および③情報連携の問題、が多く存在してきた。まず、限られた研究資金のなかでは、あるいは研究の協力者の募集の観点から、ある程度の学校数に調査対象を限定しないといけないというのは多く生じてきた。次に、調査を行ったとしても、その結果が個人情報保護の問題から、行政/研究者内で限定されるということが行われていた。その筆頭が全国学力調査で、最近は若干外部研究者に開かれてきたものの、まだ限定性が高いように思っている。このように調査データがあまり効率的に活用されてこなかった。最後に、これも個人情報保護の問題と関わるが、教育データをするときの周辺データを取るということが難しかったし、別の調査とリンクさせるということはほとんど行われてこなかった。

(2)箕面市調査の意義

 上記の点を踏まえて箕面市調査を見ると、0歳から18歳までという広い年齢階層に対して、全数調査を行うことができたという点に第一の意義がある。そして、条例改正によって目的外使用と外部利用提供を認めるようにして外部研究者に分析を依頼できるようにしたという点に第二の意義、それに加えて市役所内のデータを一覧化したことに第三の意義がある。

 これまでの調査を踏まえると、行政と議会がきちんと動くことが可能であれば、以前課題になっていた点は解決できるという事例を示したことにこの調査の意義があると考えている。

3.箕面市調査の課題

 以上のように、この調査に大きな意義があると認めた上で、細かい疑問点を書いておくと、例えば「平均偏差値」とは何を示しているのか「家族への相談の可否」は非認知能力の概念として適切なのか、などがある。とはいえ、こうした細かいことは詳細な報告書が作成されれば自ずと明らかになってくると思うので、続報を待ちたい。また、仮に調査方法に多少の問題があるとしても、ある種の「相場観」を明らかにしていくという点では意義があるだろうし、それを踏まえて箕面市であれ他地域であれ、より精密な調査が行われていくことに期待したい。

今の政治に対して思うこと

 憲法に規定された臨時国会の召集をひたすら先延ばしした挙句、召集直後に解散がなされた。憲法的にどうなのかと疑問を抱いてしまう事案である。小池百合子が現れ、民進党が崩壊し、枝野幸男が政党を立ち上げるなどと、政治は激動の様子を見せている。

第五十三条 内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。(出典:日本国憲法(昭和二十一年憲法e-Gov法令検索

 私としては相変わらず粛々とシステムが良い方向に進みそうに思える投票行動をするだけなのであるが、色々と考えているうちに、そもそもまともな投票行動を取るということは現行のシステム上は無理なのではないかという結論に至ったので、そのことについて書き残しておくことにする。

1.国難選挙?―大義を検討する

 ただひたすら「なぜ解散したの?」という疑問しか浮かんで来ない今回の選挙であるが、安倍総理が言及した、(1)北朝鮮問題、(2)少子化対策、の二点について軽く触れておく。

(1)北朝鮮問題

 外交か軍事かという点では確かに争点になりうるし、そこから派生して日米同盟をどう考えるかなど、大局的には大いに議論していいことだと思うが、ただ単純に言えることがある。それは、日本に北朝鮮に対する交渉力はないということだ。現状でキーになるのは中国と米国であるだろうが、それらに対しての圧力をかけられるほど日本に力があるというわけでもない。

 加えて、北朝鮮が実際に軍事行動を行うかと問われると、私はそうではないと思う。確かに、軍部が暴走するなどをすればそういう可能性はゼロではないのかもしれない。しかし、米朝で戦争を行ったら北朝鮮が勝てるはずもない。

 したがって、北朝鮮は、ミサイルの技術力の発信による輸入経済の活性化と、内部的な権力誇示の実行を、独裁政権の維持のために行っているだけとしか思えないのである。こう考えると、日本の対北朝鮮関係は政党間の争点になりえないのではないだろうか。

(2)少子化対策

 人口統計は非常に将来が見通しやすい珍しい統計であり、少子化が進んだのはここ数年のことではない。そんなことはずっと昔から進んできてかつ放置してきたことなのであって、そういう意味では自民党に責任があるとも言えるわけである。税金の使いみちを少子化対策にと言うけれども、予算は毎年決めるわけだから普通に国会で議論してくれればいい。

2.政策争点の解釈の難しさ

 政策の争点を適切に解釈するというのは難しくて、普段の暮らしで手一杯になっている大多数の有権者にとって、上の二点であっても困難であろう。そんなことを少しだけ書いてみる。

(1)個別争点:経済政策の事例

 例えば、経済政策の事例。今の景気がいい、それはアベノミクスの成果であるという主張がある。確かに、その可能性はあるかもしれない。しかし、この主張を厳密に確かめるには非常に手間がかかる。

 第一に、量的検証が必要である。すなわち、景気は本当に良くなったのか。様々な経済指標があるなかで、妥当な指標を取り上げて、それが本当に良くなっているのかという検証が必要である。データの裏付けのない主張は信じるべきではないのだけれど、なかなかそうもいかないのが現実である。

 第二に、質的検証が必要である。指標の変化があったとして、その変化はどのようなものか。失業率が下がったとして、その要因は景気の変化に伴う求人の増加なのか、高齢化に伴う退職の増加なのか、求職意欲の減退による求職者の退出の効果なのか。様々な要因が考えられる。また、指標の測定法が変わったということもあるだろう。

 第三に、政策と経済指標は相関ではなく因果なのか。アベノミクスに伴って景気が良くなったという量的事実があったとしても、リーマンショックからの立ち直りや、長期の景気変動のトレンド上に乗っているだけという可能性がある。

 社会全体をマクロに認識するのは非常に手間がかかることで、専門知識を持ったものでも判断が分かれるということは当然のようにある。そうした対象に対して、普通の人が適切な解釈を持つということは本来的に無理があることなのではないかとも思えてくる。

(2)パッケージとしての政党選択

 さらに問題を難しくするのは、政策のパッケージとして政党を選ばなくてはならないということである(もちろん、シングルイシューで政党選択をするという投票行動もありうるが)。経済のような一つの争点でも難しいのに、それに行政改革、教育、産業、安全保障、外交など様々な政策のパッケージとして政党を選ぶということになると、投票に必要な情報コストが膨大になってくる。

3.政策論争?―争点を明確にする制度の貧困

(1)場の貧困

 政策論争が行われるにも、今回の解散が象徴的なのであるが、与党は野党の準備ができていない時期を見計らって解散をするということがあるし、その機会もあまり多くない。テレビの討論は政党の数に対して放送時間が十分でないし、議論の整理が上手くないせいでまともに「討論」になっていない。

 そもそも、選挙期間が短すぎて、政党間の政策の相違を深めていく時間がない。どれだけ規制緩和をするかは検討が必要であるが、NHK政見放送を見ている人がどれだけいるのだろうか。そこで使っている資金を他に回した方が、より効率的に選挙が行われるのではないかと思ってしまう。

3 衆議院の解散に因る衆議院議員の総選挙は、解散の日から四十日以内に行う。 4 総選挙の期日は、少なくとも十二日前に公示しなければならない。 (出典:公職選挙法(昭和二十五年法律第百号) 施行日: 平成二十九年七月十六日 最終更新: 平成二十九年六月二十一日公布(平成二十九年法律第六十六号)改正 e-Gov法令検索

 とはいえ、こういった選挙制度は与党に有利なようになっていて、政治的にその変革が起こる予感はあまりしないのである。

(2)報道の貧困

 今回の小池旋風でも、以前の東京都知事選の小池旋風でも、とかく政局報道をしがちな報道にも問題がある。きちんと政策について説明して、疑問を政党に突きつけて、有権者が最適な投票行動を行えるようにしなければならないのだろうか。また、選挙が終わった後も、あるいは選挙の時に以前の選挙で言っていたことがどれだけ実現されたのかという観点からの報道も、しっかり行っていく必要がある。

(3)政治の性質

 ある種それは政治の本性というものなので、ある程度は仕方がないことではあるが、政治家は有権者を「騙す」。党首討論を見ると、平気で嘘を言うようなことは多くある。嘘を正すことは嘘をつくことよりも遥かにコストがかかることだし、人間は自信有りげに断定をする人の言葉を信じがちである。そこまでいかなくとも、問われたことをはぐらかすのは政治家の話術である。こういったことが、より有権者の政策への理解を困難にする。

4.展望:システムを変えていく?現状を変えていく?

 こういったことを考えると、そもそもまともな代議制民主主義は成り立ちうるのかという気がしてくる。これをどう解決していくかについて、具体的な展望があるわけではないが、おそらくそこを克服していくには二つの方向性がある。

 一つは、現状に応じてシステムを変革するということ。有権者の判断の不可能性を正面から受け止めて、それでもやっていけるようなシステムを構築していくこと。パッケージとして判断するということをどうするのか、公職選挙法を変えていくのか。これらのことはおそらく政治的に実現が難しいだろうが、内閣の解散権の制約など、実現できそうなところから少しずつ実現していくしかないだろう。

 もう一つは、現状を変革するということ。現状のシステムでは有権者の判断が難しいというならば、それができるように有権者を変えていくということである。ある意味で18歳選挙権に伴う主権者教育が始まったことは、それを実現していくための一筋の光であるように思っている(いやでも、今回が初選挙の18歳は非常に気の毒だと思う…)。そして、おそらく高等教育機関もそこにしっかりと答えていかなければならないのだと考えている。

都道府県立中高一貫校!?

 先日、なんとなく興味を持って全国の有力高校の立地について調べていたのだが、そこで「○○県立附属中学校」のような、都道府県立の中高一貫校を多く目にした。中高一貫校といったら私立のイメージが個人的には強くて、案外多くありそうなことに非常に驚いた。よく考えてみると、最近は公立の中等教育学校について耳にすることも時々ある。

 加えて、私学に対する公立の復権や、ICTや教育手法の転換に伴う共通スキルの育成のためのカリキュラム改革、SSHやSGHなどのプロジェクト型学習などの背景から、昨今では一貫教育の意義はより高まっていると考えている。反面、優秀な人材を囲い込んで資源投下して、社会的分断を深刻にするリスクもあるだろうとの懸念も同時に持っているのだが。

 そんなことで、今回は公立中高一貫校の現実について、文部科学省の学校基本調査をもとにデータをまとめてみることにした。深く考察をできるほど関連知識を持っていないので、単なるデータの紹介になってしまうが、普段あまり目を向けないであろうことについて現状を把握するだけでも意義はあることに思う。

1.叫び

 読むのが面倒で後回しにされると残念なのではじめに二つだけ書いておく。

(1)セルを結合していないし、スペースを入れてもいないのにはじめの文字が二つ隣くらいのセルに表示されるのはなぜなのだあああああああ

(2)「平成20年」を「"平成"G/標準"年度"」という文字表示の設定で表示しようとするのはやめろおおおおおおお

2.活用データと定義等

2.1.活用データ

 学校基本調査、平成12年度~平成29年度速報版。本当は学生数まで確認したかったのだが、学生数のデータはないようなので、学校数のデータのみを活用した。また、本校/分校や全日制/定時制/併置など小区分はあるが、他のものは数が限られるため基本的に本校かつ全日制のデータとみなしても問題はないと思える。公立と都道府県立で若干の差異があるときは、大体が市(区)立のものが要因となっている。

 なお、公立中高一貫校は平成11年4月の「学校教育法等の一部を改正する法律」によって制度が創設された。*1

2.2.用語の定義

今回のデータにおける「中等教育学校」、「併設型中高一貫校」、「連携型中高一貫校」とは次の通りである(出典:中高一貫教育Q&A:種類・制度・入学に関すること:文部科学省)。

中等教育学校

<1>中高一貫教育を実施することを目的とする新しい学校種として設けられたものであり,学校教育法において,その目的,目標,修業年限,前期課程と後期課程の区分等について規定しています。
<2>中等教育学校の教育課程については,前期課程は中学校の基準を,後期課程は高等学校の基準をそれぞれ準用するとともに,中高一貫教育校として特色ある教育課程を編成することができるよう教育課程の基準の特例を設けています(特例についてはQ15を参照)。
<3>中等教育学校への入学については,設置者の定めるところにより校長がこれを許可することとし,この場合,公立の中等教育学校においては学力検査を行わないこととしています。

・併設型中高一貫校

<1>学校教育法において,中等教育学校に準じて,同一の設置者が設置する中学校及び高等学校において中高一貫教育を行うことができることを規定しています。
<2>併設型の中学校・高等学校の教育課程については,中学校の基準及び高等学校の基準をそれぞれ適用するとともに,中等教育学校と同様の教育課程の基準の特例を設けております。
<3>併設型中学校への入学については,設置者の定めるところにより校長がこれを許可することとし,この場合,公立の併設型中学校においては,学力検査を行わないこととしています。また,併設型高等学校においては,当該高等学校に係る併設型中学校の生徒については入学者の選抜を行わないこととしています。

・連携型中高一貫校

<1>学校教育法施行規則において,中学校及び高等学校においては,高等学校又は中学校における教育との一貫性に配慮した教育を施すため,当該学校の設置者が設置者間の協議に基づき定めるところ(設置者が同一の場合には設置者の定めるところ)により,教育課程を編成することができるとともに,当該中学校及び高等学校は,両者が連携してそれぞれの教育課程を実施することを規定しています。また,中高一貫教育校として特色ある教育課程を編成することができるよう,教育課程の基準の特例を設けています(特例についてはQ15を参照)。
<2>連携型高等学校における入学者の選抜は,設置者間の協議に基づき、編成する教育課程に係る連携型中学校の生徒については,調査書及び学力検査の成績以外の資料により行うことができるとしています。

3.データ集計

3.1.時系列変化

f:id:futaba_szk:20171004034324j:plain  平成11年からの時系列変化を見てみると、平成11年には17校であったのから、平成29年には621校にまで伸びている。高校数が大体5000校であることを考えると、10数%で、10校に1つより少し多いくらいの学校が中等教育学校あるいは中高一貫校であることがわかる。内訳を見てみると、校数の伸びの多くを占めるのは併設型中高一貫校で、一般的な中高一貫校のイメージと一致するのではないかと思う。

f:id:futaba_szk:20171004034335j:plain  次に、設置主体別に見てみると、平成29年には私立が408校、公立が208校、国立が5校となっている。私立が多くの割合を占めていることや、国立の数が少ないことはイメージ通りだろうが、案外公立の中高一貫校が多いことがわかる*2

f:id:futaba_szk:20171004034343j:plain  ここで、すべての設置主体のなかから、都道府県立のものだけを取り出して見てみる。公立の校数と若干の違いがあるのは、先述したように主に市(区)立のものが少々あるのが主な要因である。さて、数の推移を見てみると、数の変化が起こったのは平成12年から平成22年にかけての10年間くらいで、その後はやや数の増加が落ち着いていることがわかる。どうやら、今になって都道府県立の中高一貫校が増えているのかもしれないと思ったのは、単純にその情報にアクセスできていなかったからであるようだ。

 また、内訳を見てみると、全体の傾向として併設型が多かったのと対照的なことに、こちらでは連携型の割合が高くなっている。どうやら、併設型が中心の私立と連携型が中心の公立というように、傾向に差異があるようである。

3.2.都道府県別

f:id:futaba_szk:20171004034352j:plain  次に、都道府県別に見てみると、予想通り東京が突出して多く、137校となっている。平成28年は全体で604校なので、全国の23%程度が東京にあることになる。続いて、神奈川、福岡と大都市圏が続くが、茨城や長崎なども上位に入っているのが特徴的である。また、中等教育学校、連携型/併設型中高一貫校のいずれを置くのかも地域的な特徴がありそうである。そこで、中等教育学校の比率が高い順に並べ直したものを見てみる。

f:id:futaba_szk:20171004050421j:plain  すると、新潟と愛媛は中等教育学校の比率が6割を超えていることが特徴的である。また、都市圏では6-15%の中程度の比率に集中している。ただし、それぞれそれほど校数が多くないので、傾向をどう考えるかは検討の余地があるかもしれない。

f:id:futaba_szk:20171004050432j:plain  国公立(とはいうものの国立はほぼないため実質ほとんど公立)と私立という設置主体の区分で考えてみると、校数が少ないところはブレが出るが、概ね人口が少なめの県が国公立中心、多めの県が私立中心になってくる。これは、中等教育学校中高一貫校がどうというよりも、単純に私立学校が経営し易い場所であるかということが要因として考えられるだろう。

f:id:futaba_szk:20171004034419j:plain  最後に、都道府県別に都道府県立の中等教育学校中高一貫校について検討してみた。全体の傾向と比べると東京の数の多さが顕著ではなくなり、また新潟、長崎、高知、福島、和歌山、沖縄といった地域も上位に上がってくる。その内訳を見てみると、先程注目した新潟(88%)と愛媛(100%)の中等教育学校の比率が極めて高くなっている。

4.最後に

 まだ他にも人口との比較や、全体の学校数との比較などやってみたいことはあり、上の結果だけで明確なことがどうこう言えるほどでもないが、少なくとも公立の中等教育学校中高一貫校はそれなりに存在するようになっており、しかもそれは最近始まったことではなく、平成22年頃にかけてはもう大分進んでいたことがわかった。こうした公立の学校がどのような影響をもたらすかは、今後より検討していきたい。

*1:文科省のHPが迷宮と化しているので間接的な情報しか辿れなかった。というか、辿るのがめんどくさかったとも言う。資料3:公立中高一貫教育校の入学者選抜における「学力検査」の取扱いについて(意見):文部科学省

*2:とはいえ、各自が抱いているイメージは、当然暮らしている地域に応じて差異があるだろう。

社会構造の変化と地方衰退の必然性、及びそれに対する処方箋

 近年大きな政策課題となっている「地方の衰退」というものが一体どういうものなのか、そして解決に向けた貢献が模索されているなか、一体高等教育には何ができうるのか、ということが最近の自分にとって大きなテーマであった。後者に関しては未だ自分なりの答えを明確に見出すことはできていないのであるが、前者に対しては何となく仮説が作り上げられてきたので、そのことについてまとめておこうと思う。

1.背景にある社会構造の変化

 「地方の衰退」が起こってきた背景には、商圏の変容及び労働の変容と、そうした構造変容を隠蔽してきたものがあるように考えている。なお、「地方」といってもかなりその内実には幅がある。例えば、人口規模がどうであるのか、産業構造がどうであるのか、地理的な特性がどうであるのか、人口構成がどうなっているのか、などである。本当はこれらの状況によってかなりその実態は多様なのであり、それぞれに応じた細かな検討が必要なのだろうが、今回は構造を検討するということで非常に大雑把な話になることにご容赦いただきたい。

1.1.商圏の変容

 地方の衰退を招いた大きな要因として、商圏の変容があげられると考えている。まず、輸送ネットワークが発展したこと。船、飛行機、電車、トラックというのもそうだし、道路や新幹線の整備などもそうである。それに加えて、生鮮品を考えると、輸送の質も向上した。多少の遠隔地で取れたものを、新鮮な状態のまま手に入れることが極めて容易になっているのである。こうした輸送に加えて、決済のコストが低減し、広告のチャネルが多様化し(実際には高コストをかけないと広告効果がないのかもしれない気もするが、少なくとも手軽に広告を打ちやすくはなった)、製造のコストが低下し、データの活用によって在庫管理が極めて効率化された。車と道路が整備されたことは消費者の側の行動も変え、多少の遠くまで出かけてまとめ買いをするという消費行動が一般的なものになった。このようなものを象徴するのが大型ショッピングセンターである。そのほか、ロードサイドの大型店舗が多くの場所で目立って見られるようになった。

 ある事業を考えたとき、その商圏は、(1)当該地域=集落内の商圏、(2)隣接集落を含めた複数地域の商圏、(3)地方的な商圏、(4)全国的な商圏、のように考えることができるが、上記のような変化に伴って、その場所にあることによる相対的なコスト優位の構造が失われることになっている。場合によっては、低賃金大量生産の海外からの輸入物が、低コストの輸送で運ばれることで現地生産よりも安くあがるということが起きうるようになったのである。その結果、(1)や(2)の地場の拠点が重要性を持っていた状況から、(3)や(4)のより大きな商圏の事業において、ネットワークの上部構造が力を持つ時代へと変容してきている。その結果、地域で担われる労働は単純なものになり、資本がネットワークの中心に吸い上げられる構造が構築されてきている。

1.2.労働の変容

 上記の商圏の変容に加えて、労働のあり方も変容してきた。一つは、工程が標準化されたり、機械化されるということである。ショッピングセンターの売り子を考えてみればわかりやすいように、その労働は誰が担ってもすぐにできるようなプロトコルに落とし込まれている。ついでに言えば、場合によってはかなり高度な労働さえも機械化が図られている。次に、育成のシステム化、短期化が目指されている。かつては職人的な徒弟制のなか、時間をかけて特殊技術を培ってきたものが、極めて体系的に習得させるようになっている。例えば、寿司屋の養成などを思い浮かべてみればいいだろう。最後に、生産拠点の外部移転や安価な外国人労働者の導入がある。ただ、これに関してはどれだけ効果を持っていたのかは自分なりに見えていない。というのも、技術漏洩や勤労態度、言語の問題から。必ずしも単純に低コストであるからアウトソーシングされるというわけでもないからである。とはいえ、ある程度雇用が流出していったというのは事実としてみていいのであろう。

1.3.構造変容の隠蔽

 上記のような構造変容に対して、ある意味でそれを隠蔽するような要因があったように思う。それは、かつての地方における公共事業の雇用創出や、日本の国内マーケットの大きさ、労働慣行における言語障壁の大きさ、農林水産業における規制と保護体制などである。こうしたものは、問題が悪化しているにも関わらず、表面上その問題を表出させないことによって、対策を遅らせてきた機能を持ってきたのではないだろうか。

1.4.構造変化の帰結

 ここまで書いてきたことと、前回の記事を考えると、そりゃあ地方が衰退していくというのは構造的に必然であるというように思われてくる。仕事がない仕事がないと言われるけれど、それは当然のことであろう。これに対しての処方箋は、衰退しないように構造を作り変えていくことであろうのに、「23区の大学に規制をかければいい」というような単純な考えが出てくるのには辟易するし、まともに取り組む真摯さなどないのではないかと感じられてしまうのである。

2.誤った方策

 以上のような構造変化を前提として、まず二つの誤った方策について取り上げたい。一つは話題のふるさと納税、もう一つは最近活発化している観光産業のリスクについてである。

2.1.衰退を加速させるふるさと納税

 ふるさと納税は、当初の理念は良かったのだと思っている。しかし、実現したものは極めて筋が悪い。個別に上手くいっている事例はあるだろうが、基本的に返礼品で消費者を満足させる勝負になってしまっている。このとき、上手く地元企業と組めているならばそれはいいが、それでも小口の通常の事業よりも大口の行政の買上げの方が事業リスクが低いため、そこで経営努力の誘引が低下する可能性がある。それに加えて、特産品を開発するために、地域外から原材料を買い入れたり地域外で加工を行う場合には、そこは地元から資金が流出していることになる。その上、こうしたキャンペーンをするにあたって、多くの地域には地元にそれを行うことのできる体力のある広告代理店は少なく、大都市の企業に依頼をすることになる。この場合、完全に資本流出にしかならない。このように、全体を構造的に見てみると、地方から資金が流出しているというケースは多くあると思われるのである。

2.2.観光産業のリスク

 そもそも、観光産業自体に難しさがあるように考えている。確かに、観光産業は上手く行けば外部からの資金獲得につながる。しかし、それは上手く行かせることが極めて難しい上に、リスクが伴うものになっている。まず、観光をもたらすにあたって、多くの地域が行っているのは道の駅の整備である。しかし、道の駅にはハコモノとしてオーバースペックであるとか、膨大なランニングコストがかかるものが多いように感じられる。もちろん、道の駅の施設それだけで収支を合わせなくても、そこから生じてくる観光消費まで含めてネットで判断するというのも妥当なことであるかもしれないが、それだとしても適切な規模であるのかは疑わしいように思われる。

 特産品の開発は多くの地域で活発に行われているが、それも筋が悪いと感じられるものが散見される。(ある意味で)ゆるきゃら、チョコレート、ビスケット、せんべいに見られるように、大した商材の比較優位もなく、模倣障壁は欠如しており、特産物ありきの高価な原材料費と低生産規模による高額化が生じていて、それほど美味しくないものも多くある。旅行中という多少の消費が促進される状況であるとしても、消費者の目線が欠如しているのではないかと感じられる商品は多いのではないだろうか。産直品はもちろん低価格で質の高いものも多くあるが、時には規格外品を副業的に投げ出す場となっているように思われるところもある。

 そして、様々な地域を比べてみるとわかるように、ローカルな地域資源なんて実はどこも似通ったもので、本当の意味でそこに行かないと得られない特産品なんてほとんどない。その方向を目指して観光投資をするのはどうなのだろうか。気持ちはわかるけれど、ほとんどの地域はただ討ち死にするだけなのではないか。まあ、素晴らしいものも一部あるし、市場なんてそんなものだという考えもできるけれど、こういうものは直接的/間接的に税金が投入されているかもしれないから違和感を抱くのである。

 こういう商品開発の面での問題点に加えて、観光産業にはリスクが伴う。国内景気の動向は代表的なものであるし、昨今のインバウンドの増大を考えると、国際関係や国際経済のリスクもある。国内ではあちこちで地域資源を使った観光の活性化が行われ(例えば「日本遺産」「ジオパーク」など)、格安航空が発展してくると海外との行き来も容易になる。それだけ競合が膨大に増えていくなか、わざわざその地域が選ばれるのかというと、もちろんそれを目指して特色化を図っていくのは適切なことなのだけれど、あまりそれに頼りすぎるのは大きなリスクなのではないかと思われる。

3.適切な考え方

 ではどのように考えていけば良いのか。そのためには、状況に合わせて行政システムを変革すること、地域経済の収支構造を考えることの二点が重要なのだと思われる。

3.1.行政システムの変革

 恐らく現状の意思決定プロセスからそのようなことは起こり得ないのだろうとかなり悲観的であるのだが、最も適切な方向性は現状の行政システムを変革することであろう。例えば、ふるさと納税は現状の行政システムを所与のものとして資源の取り合いをしているわけであるが、国家全体として衰退している以上そのような無駄なことは最悪の状態だと思われる。人口減少をすることは人口統計上正確性を持って予期できることであり、人口構成上社会保障費が膨らんで自治体が回らなくなるなら、人工減少に伴ってサービスを広域化するなりして対応していくのは当然のことなのではないか。行政組織ありきではなく、地域の現状に合わせて行政を組織していくということが理想的なのであるが、現状の地方自治の論理を前提にすると、そのような変革は進まずにいつまでも資源の取り合いをしている未来が思い浮かべられてしまう。

3.2.地域経済の収支構造

 上記のようなことは難しいとしても、少なくともきちんと持ってほしい視点は、地域経済の収支構造を考えるということである。一国の経済を発展させていこうと考えるときには、輸出をできるだけ多くして、輸入を少なくして、国内での経済循環を活発化させるというのがセオリーである。それと同様に、地域の経済においても、地域内への資本の流入量を増やし、地域外での流出量を減らし、地域内における循環量を増やすということが鍵になってくる。例えば、地場の産業にいかに大資本にない付加価値をつけるかであるとか、地場の産業をいかに育てていくかであるとか、大資本のなかに地場の産業を組み込んでいく(例えば、大型ショッピングセンターにおける地産地消は一つの解なのかもしれない)ことだとか、そういった取り組みを地道に進めて地域経済の収支構造を改善していくことが求められるのであろう。このとき、地方の経済を支える存在として、制度面から取り組んでいく地方行政、資金面から取り組んでいく地方銀行/信用金庫が精力的に活動し、そしてそれらとともに地域でビジネスを行っていく先進的な事業者が育っていくことが重要なのであろう。

4.大学と地域を支える人材のあり方

 では、このような状況に対して大学ではいかなることができるのか。そこはまだ自分なりの解が見えていないのであるが、いくつか仮説を書いておこうと思う。

4.1.衰退的再生産構造?

 多くの地方で言えるのは、これまでの構造変化を考えると、以前と同じことを再生産するだけでは必然的に衰退していくのではないかということである。しかし、あとできちんと確認したいが、地方公務員や地方銀行、教員の子どもという地方のエスタブリッシュメント層が、地方公立の有力校に進んで、地方国立大学を卒業して、保守的な考え方から地方公務員や地方銀行に就職するという構造があるのではないかというのが気がかりである(妄想がたくましいだけであってほしい)。地方に教育機会が十分にあることの重要性は疑い得ないように考えているが、実は一度地域の外に出て、外部からの視点や外部とのネットワークを持った人間が再び地元に戻ってくる方が、問題解決には寄与しうるのではないかとも思われるのである。

4.2.公務員の選抜制度と予期せぬ同質化効果

 加えて、公務員試験のあり方も一つ考慮していいところであるように思う。公務員の試験は一般には民間就活と毛色が違うもので(最近は変わってきているところもあるようだが)、民間と併願するのがリスクに感じられるときがある。また、公務員試験の対策にはそれなりに時間が必要なようで、民間就活とはキャリアトラックが分かれていくように思われる。確かに、公務員試験は公務員としての適性を担保する上でいくらかの意義を持っているのかもしれないが、そこで予期せぬ結果として同質化効果が生じてしまうことが、ある種保守的な公務員を生み出す機能を持っているのかもしれない。

セーフティネットとしての産業の崩壊

 ここ最近、高度成長期くらいからの社会構造の変化と、地方と経済の問題についてあれこれ考えている。というのも、高等教育のあり方を考える上で、これらの問題をきちんと視野に入れておくことは重要だと思われるからだ。もっと言えば、大きな構造を理解することを怠っていると、部分システムの部分最適に寄与することができたとしても、結局それが全体最適にはつながらず、むしろ衰退の構造を強化するということにもなりかねないからである。そういう観点からふと考えたのが、セーフティネットとしての産業の崩壊である。少々とりとめのない文章になる。

1.ヤクザの衰退

 それほど詳しく情報を追っていたわけではないのだが、先日山口組の分裂の話が話題になった。その要因の一つとして、以前のようにシノギが上がらなくなったということを目にしたことがある。従来ならば上がってくるものを下に配分するような機能を持っていたものが、むしろ下から上に資金が吸い上げられる形になってきているらしい。分裂はこれだけの要因ではないだろうし、また資金が集まらなくなっているとして、それがどのようなメカニズムで変化してきたのかについては詳しく知らないが(警察の取り締まりや法律の関係も当然あるだろう)、少なくとも事象としてヤクザが衰退してきているというのは事実として見ていいように思う。

2.低学歴の職種の衰退

 加えて、いわゆる低学歴の職種がかなり厳しくなってきている。例えば、トラック運転手、タクシー運転手、鳶職、町工場、自動車整備士、建設業などである。かつてであればそれなりの収入を持って家庭を支えることや、後輩に振る舞いをすることが可能であったこれらの仕事について、今ではもうそういったことがかなり厳しくなってきているとの話を聞く。

3.その帰結

 これらのものは、学校で構造が序列化された社会のなかで、「学校」に親和性の低い人々が生きていくためのセーフティネットとして機能してきたように思う。しかし、こうした「学校」に親和性が低いものたちが働く場は、徐々に崩壊しつつあるのではないだろうか。それに加えて地方における産業の変化についても重要な論点であると思われるが、こちらは長くなりそうなので別の機会に書くことにして、こうした再生産構造の崩壊を踏まえた上で職業教育としての高等教育機関のあり方を考える必要があるように考えている。

 このあたりに目配せをしておく必要があると思うのは、ヤクザはひとまず別のものとしても、低学歴の職種の衰退はトランプの登場とBrexitの成立に関わっていると考えているからである。石炭、鉄鋼、自動車産業を中心とした産業の衰退による雇用の悪化、あるいは悪化まで行っていなくとも、将来に対する不安がある程度投票行動に影響を与えたと思われる。日本のような「保守」が政権を握っているところで同様の事象が起こりうるのかは何とも言えないが、少なくとも社会の分断につながり、それはあまり好ましいことではないのだと私は考えている。

 分断の影響で言えば、詐欺の興隆はある程度そうしたセーフティネットとしての産業の崩壊が背景の一つにあるのかもしれない。詐欺を正当化するつもりは全くないが、崩壊した再生産の構造に絶望したものが、詐欺を行うことは正当な行為なのだという論理を受け入れるその気持ちは、ある程度理解しうるように思われる。

「ラーニングコモンズ」の流行に感じること

 これからは「アクティブラーニング」の時代だと流行が広まっているなか、それを実現するための空間として、「ラーニングコモンズ」なるものが多くの大学で作られている。確かに、これまでの学習空間の代表である図書館は基本的に静寂空間であったから、集団で活動をしたりテクノロジーを活用する空間としてあまりいいものではなかったという点では同意できるものがある。しかし、あちらこちらの「ラーニングコモンズ」について見聞きするに、結局哲学のないただの模倣=流行に過ぎないのではないかと感じている。

1.理想的な学習者から演繹される空間

 「ラーニングコモンズ」には一抹の気持ち悪さを感じている。その源泉がどこにあるかというと、その空間は理想的な学習者から演繹されるものであり、現実の学習者を見る視点に欠けているのではないかと思われるからだ。多くの大学において、昨今の教育改革の文脈から「ラーニングコモンズ」が導入されている。その時に、そうした改革の目標となるような理想的な学習者を想像して、その理想的な学習者がいかに行動するかに即して最適な空間がデザインされる。その結果、非常にコンセプチュアルで、美しい空間が実現されるのであるが、それは現実の「アクティブではない」あるいは「やる気のない」ような学習者が活用しやすい空間ではないのではないだろうか。

 確かに、教育の転換には一定の意義があると思っているし、そのために現状とは異なる理想像を描いて演繹的に考えていくプロセス自体は重要なことだと考えている。しかし、本来ならば、そういう方向の視点に加えて、現実の学習者の現実的な行動やニーズを吸い上げていくことが同時に行われるべきであったのではないかと思われる。

2.きめ細やかなゾーニングと空間の自由度

 いくら転換だと言っても、従来ながらの静寂空間は重要性を失っていない。当然それは理解されていて、静寂空間とPC等が利用可能な空間と会話が可能な空間の三区分程度で大まかなゾーニングがなされている事例は多い。しかし、個人的にはそうした静寂空間でも、それなりの広さの空間なのか、個室なのか、机が広い/狭いのか、視界がどれだけ遮断されるのかなど個人個人に応じた細かなニーズが存在するだろうし、「ラーニングコモンズ」に該当する空間でも同様である。机が良いときがあるかもしれないし、靴を脱げる空間があるのもいいかもしれない。このように、きめ細やかなゾーニングを行うことがより学生の個別の活動/学習を促す効果があるのではないかと個人的には考えている。

 さらに加えて、「ラーニングコモンズ」というととりあえず可動机があり、可動椅子があり、ホワイトボードがあり、時々液晶ディスプレイがあり、電子黒板があり…となっている。ある種、こういうツールを置いておけばそこを「ラーニングコモンズ」と呼ぶことができるかのようである。個人的に考えているのは、こうしたツールに加えて、可動のパーティションや室内BGMも含めて、教職員の側が実験的に空間を変えることができること、それに何より、学生の側が自分たちの都合に合わせて空間を作っていくような空間の自由度が重要なのだということである。そのとき、自由に動かせるものを置いておくだけでいいのではなくて、実際にそういう行動を引き出すような「仕掛け」を組み込んでおくということが重要なのではないだろうか。

3.オープンな学びの理念とクローズドな空間管理

 最後に、これが一番気になっていることなのであるが、教育改革は「オープンな学び」を理念にしているはずなのに、実際にはクローズドな空間管理が行われることに大きな違和感を抱いている。一部の大学で、意識的なのかはわからないが、図書館外に「ラーニングコモンズ」が作られている事例がある。これは評価すべきことであると思う。あるいは、実質的に図書館が開放されており、図書館内に置いたとしても閉鎖空間となっていない場合がある。こうした例でもそれは良いことであると思う。問題なのは、原則的にその大学の学生のみに利用者を制限している図書館で、その館内に「ラーニングコモンズ」が設置されている場合である。

 確かに、管理上の問題から図書館を無制限に開放することは難しい。その点に関しては、当然理解できることである。しかし、新たな教育として思い描かれている「オープンな学び」では、集団で活動を行うにあたってそのメンバーは他大学の学生がいてもいいはずだし、地域の住民でいてもいいはずである。むしろ、そのような多様な人材が交流することは、新たな学びを促進するものとしても重要なはずである。しかし、現実的にはそのようにはいかない。

4.最後に

 流行に乗って「ラーニングコモンズ」を作ることに意義がないとは思わない。しかし、そこで行われる学びは「アクティブラーニング」の理想を実現することなく、結局は囲い込まれた枠のなかでの自由を演出する装置としてしか働くことがないのではないか。

学習資源と地方国立大学の重要性

 インターネットによって誰でも手軽に学べるようになったと言われることがよくある。確かに、単純なコストの面ではそれは事実かもしれないが、実際的な麺を考えて見ると未だにそれは実現し難いだろうし、そこで書籍は依然として学習の主要なメディアであり続けているのだと考えている。そういう意味での学習資源の観点と、書籍へのアクセスの観点からの地方国立大学の重要性について、現状で仮説として考えていることを書いておく。

1.物理的存在としての書籍の重要性

 インターネットの発展によって情報として書籍が代替されるようになる、あるいはAmazonの登場によって物理的に書籍が置かれる場所が重要性を失ってきていると考えられることがある。しかし、インターネットの情報にはある分野の初心者にとっては適切な情報を引き出すことは難しいし、Amazon等の通販の形式で書籍を購入するにも不十分な点があると思われる。

1.1.インターネットの情報の限界

 インターネットの情報は、誰もが安価にあらゆる情報にアクセスできるような幻想を抱かせる。しかし、現実的にはそれはある程度の知識を持ったものにしか困難なことになっている。検索サイトでキーワードを入れてみればわかるが、今では多くの記事がキュレーションサイトに「汚染」されている。確かに、そのなかには有用な情報が存在はするものの、PV稼ぎの場でしかなかったり、不明確な情報をひたすら集めてきただけであったり、情報としての信頼性がかなり怪しいものが非常に多くなっている。しかし、検索のトップ3までしかほとんど見られないというのは一般的な話である。高度な検索のスキルを持っていれば信頼性の高い情報にアクセスすることは可能であるが、キーワードや検索条件、情報ソースの信頼性判断など、あまり慣れていない人にはなかなかハードルが高い状態になっている。

 SNSでは、フォローとブロックを活用することによって、自分に親和性が高い情報を寄せ集めて、親和性が低い情報を隔離するように行動を進めていく。気づけばSNSは「ブロック化」した世界に成り果て、自分の認識を深めてくれるような情報ソースとしては機能しづらいようになっていく。

 膨大な情報があるインターネットでは、それをうまく使えればかなり有用な情報源となる。しかし、かなりの「ゴミ」が混在する山のなかから、断片化した情報を寄せ集めてまともな知見に至ることは極めて難しい。ともすればパーソナライズされた居心地の良い情報空間から、気持ちの良い情報の消費を行うだけになりかねない。

1.2.物理的なひとまとまりの情報としての書籍

 書籍が物理的に並んでいることには意義がある。それは、自然と周辺のトピックに触れることになるということと、情報がひとまとまりになっているということにある。すなわち、ネットで検索するとなると、(キーワードの入れ方にもよるが)かなり視野の狭い情報になりやすい。書籍は、物理的に書架に並べられるため、意識せずに関連する領域に目を配ることになりやすい。ある意味で、自然に「ノイズ」が入ることになる。そして、書籍は一冊の本という単位でまとめられるため、情報がある程度体系化されたものになりやすい。読みこなすことに困難が伴うとも指摘できるが、情報の断片化はある程度防ぐことができるし、目次を見渡すだけでも何となく大きな絵を見ることができるだろう。

 それに加えて、物理的存在としての書籍は容易に前の部分を見返すことができるし、後にまた読み返すということが行いやすい。デジタル情報でも可能ではあるが、デジタル情報をきちんと管理し切るのはそれはそれで難しいことであるように思う。

2.学習資源としての書籍の欠乏

 そのように、依然として書籍は重要な情報メディアであると考える一方で、そこへのアクセスはかなり難しいものになっているという印象がしている。

2.1.書店の品揃えの貧困

 かつてに比べて、書店の品揃えは貧困になったのではないだろうか。今の地方の書店を見ると、雑誌、コミック、文芸、実用書でほぼ全部を占めることが多いと感じられる。そして、書籍の売上が低迷するなか、書店が少なくなっていると言われる。このあたりは、むしろそれまで多く書籍が読まれ、多く書店があったということが特異なことであったと解釈することもできるかもしれないし、そもそも大学進学率が低かった時代に地方に書店がそれほどあったのかなど、きちんとデータを確認する必要があるとも感じられる。

 しかし、確実に言えるのは、ロードサイドのフランチャイズの大規模書店が多く立地するようになり、POSデータによって経済的な効率化がなされるようになると、売り場の多様性は消失する。ある意味で「適当」であったことによってあった「余白」が消失してしまったということは確実に言えるのではないだろうか。

2.2.公共図書館の蔵書の限界

 それでは、書籍の保存機関としての図書館がどうなのかというと、それほど明るい場所としては見ていない。というのも、公共図書館地方交付税交付金措置によって財政措置されるものであるが、その交付金を実際に図書館に当てるかは地方自治の範囲内に任されている。国家的な統制は利くものではない。しかし、地方自治のなかで公共図書館のあり方が政策課題に挙がることはそれほど多くないし、以前からの市民社会における図書館の位置づけの曖昧さがそれに拍車をかけているように感じる。そこで、多くの地域において、社会保障費が膨らんでいくなかで、公共図書館に十分な資料費が措置されているとは言い難いのではないだろうか。

3.国立大学/放送大学としての地方国立大学

 地方国立大学は、学習機会の均等の場としての意義を持っていることは疑いようのない事実である。そして、上記のような環境において学習の資源を提供する機能も持っている。それだけでなく、地方国立大学は多くが放送大学の学習センターを併設し、かつ図書館の一般開放を行っていることから、放送大学の学生に対する学習資源の提供も結果的に行っていることになっている。当然、放送大学の学生でなくとも、地方に住む人たちに対しても学習資源を提供している。

 もちろん、他の施設が存在するのであればそれは国立大学である必然性はないのであるが、現状においては、地方国立大学が国立大学として、あるいは放送大学に対して、そして一般の人々に対して学習資源を提供する重要な場として機能していることは注意しておくべきことであるように思う。

プログラミング教育の議論から着想した色々

 先日、NEW EDUCATION EXPO 2017に行ってきた。3日間に渡る、教育関係者向けのセミナー&展示会のイベントである。多くの商材を見ながら、あるいはいくつかの講演を聞きながら、「ああ、今の教育はこんなにも急激に変化しているのか」と感じさせられて、初等中等教育への関心を疎かにしていたことを少々反省した。そのなかでは着想を得るものはたくさんあって、未だ消化しきれていないものも多くあるのだが、今回はとある講演で触れられていた、「小学校段階における論理的思考力や創造性、問題解決能力等の育成とプログラミング教育に関する有識者会議」(会議名が長すぎる……)による、「小学校段階におけるプログラミング教育の在り方について(議論の取りまとめ)」(平成28年6月16日)を読みながら考えたことを軽くまとめて置こうと思う。なお、以下の記述は当該文書の要約ではなく、ただそこを起点にして、他の知識と組み合わせながら着想したことに過ぎないと述べておく。

1.プログラミング教育の目的

まず、当該文書におけるプログラミング教育の目的について、簡単に紹介しておく。当該文書では、目的について、以下のように記述している。

プログラミング教育とは、子供たちに、コンピュータに意図した処理を行うよう指示することができるということを体験させながら、将来どのような職業に就くとしても、時代を超えて普遍的に求められる力としての「プログラミング的思考」などを育むことであり、コーディングを覚えることが目的ではない。

 そして、ここで出てくる「プログラミング的思考」は、以下のように定義されている。

自分が意図する一連の活動を実現するために、どのような動きの組合せが必要であり、一つ一つの動きに対応した記号を、どのように組み合わせたらいいのか、記号の組合せをどのように改善していけば、より意図した活動に近づくのか、といったことを論理的に考えていく力

2.プログラミング教育導入における論点

 上記のようなプログラミング教育の意義については全く否定しないし、細かい議論はどうであれプログラミング教育の導入の方向性自体については全くの同意である。しかし、それを推進するにあたっては、様々な検討が必要である。

(1)目標設定の妥当性

 教育で導入が望まれるものは、どれも無限に資源があるとしたらやった方がいいことであろう。しかし、現実的にはどれをやるのか、どこまでやるのか、いつやるのかという論点に触れざるを得ない。プログラミング教育を導入するのならば、必ず既存の教科とのトレードオフになるし、そもそも義務教育のなかでどこまでをミニマムにするのかは吟味すべきであるし、いつやるのが効率的なのかの検討も必要である。一点目は当然のことであるので割愛する。二点目について言えば、あまりにも低い水準にしすぎると、ただ楽しいだけで上記の「プログラミング的思考」のような汎用的思考力にはつながらない、あるいは身の回りの技術との連関を想起するにも、遠すぎるところまでしか到達しないかもしれない。かといって高度すぎると、そこについていけない生徒が生じうる。また、高度なものを実現できる生徒には発展的課題に挑戦させることも必要かもしれない。ボトム層の能力を担保しつつ、トップ層の飛躍を担保するのは、非常に難しい課題であると思う(もちろん、学校の教育外へつなげるのはありだろうし、むしろそう水路付けてあげることが大事なのかもしれない)。三点目については、例えば論理的思考力を取れば、なかなか分析的に考えていくのは難しい。もはや大学生でもできない学生が頻出するレベルである。この点はそもそも現在の大学生は論理的思考力を教育課程で育んできていないからだと言われればそれまでなのだが、プログラミングを通して培うならまだしも、ある程度その力を要求するようなことをするのならば、例えば小学校低学年・中学年では取り扱わないことにする方が望ましいという解釈もできるのではないだろうか。

(2)怠惰の肯定

 プログラミングの本質的なものとして、私は「怠惰」があるのだと思う。何かをするのが面倒だからこそ、その作業を分析して自動化しようとする意欲が生まれてくる。そうした状況においては、努力を不問に付し、過程よりも結果を重視する姿勢が必要になってくる。しかし、現状の教育では、様々な部分で「努力」は無条件に肯定されることが多い。掛け算の順序のように、結果ではなく形式に固執するものも見られる。このメンタリティときちんと決別することが、プログラミング教育を効果的に進めていくための鍵と言えるのではないかとも思えるのだが、私の印象としてはそれこそなかなか困難であるように感じられる。

(3)基盤整備

 ICT機器を導入するとなると、当然様々な基盤整備が必要になる。まずハード、それもそれなりのスペックを持ったハードが必要になる。その用途にも依るが、休み時間や自宅でも使えるような一人一台の環境があるものが望ましいだろう。そうしたハードが機能するための環境として、ソフトが必要になる。機器内でのアプリだけでなく、セキュリティも含めたきちんとしたIT環境、活用のための機器(電子黒板等)がなければ、いいハードがあっても機能しない。それに加えて、そうしたハードとソフトを活用する人材が必要である。教員のICT活用能力は格段に向上させなければいけないし、それに加えて教員を補助するICT支援員の充実も必要である。せっかく機材を買ったとしても、通信速度の不足や、画面に表示されないことへの対応で時間を浪費するのであれば、もはややらない方がいいということも考えられる。

(4)組織的対応の必要性

 上記のような基盤整備を確実にしていくためという意味でもそうではない意味でも、組織的に対応を進めていくことが必要になる。というのも、プログラミング教育を教科横断的に進めていく小学校だけでなく、技術の科目が存在する中学校においても、プログラミング教育は独立して行うことではなく、カリキュラムの中に埋め込んで行く必要があるからである。教科横断的に、プログラミング教育におけるそれぞれの能力をどう有機的に連関させて学習させていくかはプログラミング教育の成否に関わってくる。この点では、基本的にクラスを担当する小学校の方が、教科を担当する中学校よりも適切なプログラミング教育を実施しやすいと言えるのかもしれない。

3.社会の分断?

 最後に、プログラミング教育と少し離れた想像を書いておく。

 プログラミング教育にせよ、「アクティブ・ラーニング」への教育改革にせよ、能力は個別のモジュールで育成されるのではなく、カリキュラム全体を通して育んでいくことになる。そこでは、学校組織内での組織的取り組みが重要になってくるし、さらに言えば、学校間での接続も重要になってくる。小学校で卓越したプログラミング能力を培った子どもが、プログラミング教育が貧弱な中学校に入ってしまったら、悲劇以外の何者でもないのである。こうしたことを考えると、組織的な連続性が担保されやすい大学付属校や、そうでなくとも中高一貫校に入ることがより望ましい選択肢として現れてくるのである。現時点でも大学進学を念頭においた進路選択のなかで、中高一貫校がかなりの存在感を持っていることは疑い得ない。しかし、教育改革はこうした傾向に拍車をかけうる。

 一般的に、地元の公立学校に通う以外の選択を取るには、通学や学費のコストがよりかかるようになる。親の認識に応じて、そもそもそういった進学の選択肢すら無きものとして扱われるかもしれない。公立の一貫校は、概して進学重点校とされることが多く、そこに進学するのも難しい上に人的/物的に恵まれた資源配分がされることが多い。

 コンテンツからコンピテンシーへ教育成果の視点が移行してくると、経済階層に応じて大きな経験の格差が想定できるなか、かつ若年階層ほど家族の経済階層の影響を受けやすいと思われる(主観的評価です)状態で、改革を行った入試において経済階層が高いものほど合格しやすいというのも想定できる。教材や指導法のレパートリーが多様化するなか、優れた人材と豊富な資金力を持った学校と、劣った人材と貧困な資金力しかない学校の教育格差が伸長していくこともありうる。

 こうしたものによって、より若年段階における学校別の階層分化に拍車がかかり、社会全体の分断につながっていくという未来は、訪れると予期できるかもしれない。そうならないと願いたいのだけれど。

「河野太郎の大学の悩み聞きます@東京大学五月祭」に関する考察 その2

 先日書いた記事(「河野太郎の大学の悩み聞きます@東京大学五月祭」に関する考察)について、九州大学の大賀哲先生に、ブログのなかで取り上げていただいた(再び要望書について | 九州大学国際政治学教室)。記事を書いていただいてから時間が経ってしまい誠に申し訳ないのであるが、今更ながらその記事の内容について、簡単に返答しておくことにする。なお予め断っておくが、私は大学の教員でも職員でもないので、以下の記述に関しては不適切な認識もあるかもしれない。もしそのような不適切な認識があった場合、ぜひ指摘してほしい。また、以下の記述は各々で考えるための素材として活用してもらえると幸いである。

1.権限の問題

1.1.以前の記事における誤解

 この点についてまず言及しておきたいのは、以下のことである。すなわち、以前私が、

国立大学法人はあくまで国から独立した法人であり、政治家⇔行政(文部科学省)⇔国立大学というラインで上位から権力行使されるのは可能な限り抑制されるべきだと思うからである。(中略)本来ならば自主的に解決されるべき事象であり、政治家経由の介入が頻繁に行われたという事実を作ることが将来に悪く響かないことを願っている。

と述べたのに対して、大賀先生から、

共通指針は「競争的資金に関する関係府省連絡会申し合せ」であり、これは公的研究費制度として競争的資金の配分機関または配分機関を監督する官庁が文科省を含めた一府八省にまたがっているためである。 したがって、「政治家―行政(文部科学省)―各大学」の関係というよりも、文科省も当然そこに包摂されるが「政治―行政(一府八省)―配分機関―各大学」という構図があり、複数の関係府省にまたがった政治マターの課題であると認識している。

という指摘がなされた。この点に関しては、全面的に私の誤解である。理解が不十分であったことに関して、心からお詫びしたい。

1.2.基本的な姿勢

 次に、私の基本的な姿勢について述べたい。大賀先生による、

④仮に本要望が大学の自主性を脅かすとするならば、その大元の、すなわち国が共通指針を定めたり、配分機関において経費執行についての細則を定めることも大学の自主性を脅かすことになると言えてしまいそうであるが、しかし、そのような考えは少数派であろう。共通指針自体はなんら大学の自主性を損なうものではない(配分機関から配分された資金の使途を定めた文書に過ぎない)。にも拘わらず、共通指針の見直しを提起することが大学の自主性を脅かすというのは少し論理が飛躍してはいないだろうか。

という指摘に対しては、上記の誤解があろうとなかろうと、
・共通指針の見直しを要望することに対しては賛成である
・行政が硬直的な事象に対して政治家に要望を伝えるということ自体は、変革のための真っ当なプロセスである
と私は考えていることを述べたい。この背景には、以前の記事において、「権限の問題」という区分けが不適切であったこと、当該部分に関する記述が不十分であったこと、そしてそもそもその時点で私の考えが十分に整理されていなかったことがある。

1.3.私の考え

 そもそも前回の記事において「権限の問題」として取り上げたのは、川口/大賀両先生の要望単独のことではなく、Word罫線や神エクセル等の一連の流れのなかでのことであった。また、「共通指針の見直し」という事象ではなく、それを実現するためのプロセスを一連の他の事象と同一に見てのことであった。確かにWord罫線や神エクセル、間接経費についてはどれも問題だと思われるものの、そもそもの根源的な問題は、末端での問題が解決に向けてフィードバックされていく回路が余りにも欠如していることなのではないかと考えたのである。すなわち、それぞれの問題について、研究者と大学、学術振興会、文部科学省といった直接やり取りがなされる組織間での解決がなされるのが望ましいのではないだろうか。(この点、研究者の方はどう思われるだろうか、ご意見を伺いたい。そんなことは現実的ではないという意見もありそうな気もする。)

※なお、今回テーマになっている共通指針は省庁横断的なものであり、単なる研究者―文部科学省という関係ではないため、政治に頼ることは仕方がないと思う。上記の記述は冒頭の誤解を踏まえた上での考えであった。

 なぜ末端組織間での解決手段の欠如を問題視し、「政治家経由の介入が頻繁に行われ」ることを危惧するかというと、大学はある程度の自律性を持っていることが必要である(もちろん、外部の需要に応えずに好き勝手やっていいというわけではない)と考えており、また高等教育・学術の持つ複雑性を適切に認識した上でこうしたものに関わる政治家はそれほど多くないと考えているからである。特定の権威から距離を取った視点を持つことが重要であることは疑い得ず(とはいえ学術が権威になることも多々あるわけだが…)、そのためには一定の組織の独立性が必要である。そして、大学はその機能の複合性から、その在り方を適切に認識することは非常に難しい。(単なる)学長のリーダーシップ強化や東京23区の大学定員規制など、過度に単純化された議論ばかりなされる現状で、政治家に頼ることが常態化するとしたら、それは必ずしもいい結果につながらないのではないかと危惧しているのである。

 もちろん、これらは河野太郎氏という個人が適切な変革をもたらす可能性を否定することではない。河野太郎氏という一定の地位があり、大学に対して問題意識を強く持っている(ように見える)人物が、適切な問題把握の上、適切な変革に寄与する可能性はあるかもしれない。そしてまた、長期的にはきちんと高等教育・学術の持つ複雑性を一般に理解してもらうことが望ましいと思われる。

 なお、そんなことを言われてもと思われるかもしれないが、そもそも前回の記事も単に両先生に向けたものなのではなく、要望を起点にしてさらに広い問題を考えたものであったことを指摘しておきたい。

2.運営費交付金の減額

運営費交付金については、私は以前の記事で、

運営費交付金が減少し、基盤的な経費が不足しているからこそ、競争的資金に伴う間接経費を基盤的な運営経費として活用せざるを得ないという事情がある。

と述べた。これについて、大賀先生は、

①まず(a)間接経費をどのような趣旨の下に運用すべきかという規範的な議論と、(仮に(a)に何らかの方向性が与えられたとして)(b)間接経費をそのように運用することは財務上可能かという経験的・実体的な議論は論理的には区別可能であり、かつ(b)は(a)を否定する根拠とはならないのではないかというのが一点。

と述べた。この点については、まず、上記の私の記述は、指摘のように議論を区別した上で、否定する根拠として書いたのではなく、単なる前提の確認として書いたことを述べておきたい。

 しかしその上で、確かに論理的には(a)と(b)は別問題であるものの、実現のプロセスを考えてみると、当初はそう考えてはいなかったものの、(b)について(a)を否定する根拠として論じることも可能なのではないかと思われた。間接経費運用に財務上関わってくる運営費交付金の減額については、発表資料を見る限り、競争的教育資金の改革で捻出することを一つの案として考えていると思われる。その他にも方策はあるかもしれないが、少なくとも間接経費の運用の見直しと、基盤的経費の措置を両輪として要望を述べたのだと理解している。そのとき、この二つのことは論理的には分けて考えられるものの、現実的な変革可能性を考慮すると、片方のみが実現するということも当然考えられる。すなわち、間接経費運用の見直しのみが実現し、運営費交付金は(例えば)部局に付与されなくなるということも考えうるのではないだろうか。

3.最後に

 大賀先生が、

予想されていたことではあるが、この問題の背景には深刻なコミュニケーション不足があると思う。

と述べていたように、そもそも人によって現状の認識に差異が非常に大きくあるのだろうし、かつ認識が十分あったのだとしてもそれに対する対処の方向性に関して大きな意見の差異があるのだろうと思う。そうしたなかで、私の記述が少しでも参考になれば幸いである。

国内外の大学における職員/教員比率

 私は、昨日の記事(「河野太郎の大学の悩み聞きます@東京大学五月祭」に関する考察 - ふたばの日記)のなかで、国内外の大学における教員、職員とアカデミック・スタッフの比率についての比較のデータを取り上げた。そこでは日本の大学としては東京大学のみが含まれていた。しかし、一般的に東京大学は日本の大学のなかでは外れ値と捉えた方が適切であろうから、より多くの大学を比較することで日本の大学一般の状況を検討する必要があると思われる。そこで今回は、日本の国公私立の有力大学について、データの比較を行ってみることにする。(なお、先日手に入れた東洋経済の増刊号のデータを使ってみたかっただけでもあるww)

 なお、先に注意を払っておくが、以下に提示したデータのみでは精緻な解釈をすることは不可能である。下で利用したデータは専任教員数と専任職員数(と学生数)であるが、そもそもこれらの内訳には大学毎あるいは国によって差異があるだろうし(だから国際比較は難しい…)、非専任教員やアカデミック・スタッフは含まれていない。したがって、あくまで参考のデータに過ぎない。

1.元にするデータについて

 今回、国内大学については、東洋経済新報社[2017]『週刊東洋経済臨時増刊「本当に強い大学2017」』の学生数、教員数、職員数のデータを利用した。これらのデータは、「2016年5月現在。数字は大学単体ベース。学生数…は大学院生を含む(受け入れ留学生、研究生、聴講生は除く)。…教員数は助教以上の専任教員、職員は専任で派遣を含まず」となっている。なお取り上げる大学については、国公私立の大学それぞれについて、筆者の恣意的な基準で有力大学だと思われるところを選定した。

 海外大学については、前回利用した東京大学国際連携本部国際企画部[2007]「世界の有力大学の国際化の動向調査報告書」のデータを用いた。東京大学に関して、2015年の集計したデータと東洋経済の2016年のデータを突き合わせたところ、東洋経済における教員数、職員数はそれぞれ東京大学の報告書における専任教員、専任職員に該当すると判断し、そのように処理している(年度の違うデータを利用しているので、適合していない可能性もある)。したがって、今回の職員/教員比率は、非専任も含まれていた前回の記事内の表における職員/教員比率とは少々値が異なっている。ただし、概ねその値は一致しているため、比較には一定の意義があるだろう。なお、この海外大学のデータは東洋経済の国内大学のデータよりも10年ほど前のデータになるので、現在ではその値が変化している可能性も当然ある。

2.結果

f:id:futaba_szk:20170523125539j:plain 表1:国内外大学教員・職員・学生数
出典:国内大学は東洋経済新報社[2017]『週刊東洋経済臨時増刊「本当に強い大学2017」』、海外大学は東京大学国際連携本部国際企画部[2007]「世界の有力大学の国際化の動向調査報告書」、pp. 67-68、より筆者作成

f:id:futaba_szk:20170523123515j:plain 図1:国内外大学職員/教員比率
出典:同上

 全体として、設置区分、医学部の有無によって傾向が読み取れる。設置区分は財政的な余裕を示しており、医学部の有無は、医学部(病院)には比較的職員が配置されやすいということを示しているのだろう。個別に見ると、横浜市立大学が著しく高い職員/教員比率を示しているが、これは小規模かつ医学部を持つ大学であるからという外れ値と見るべきか。概して国立大学では1.0~1.5程度、私立大学では0.5~0.9程度になっている。

 海外の大学では、米国の大学の数値の大きさが極めて顕著である。医学部のないUCBでも5.0近くとなっているのは、気になる点である。

3.最後に

 冒頭でも指摘したが、そもそも用語の定義が統一されているとは考え難く、またアカデミック・スタッフの存在や、非正規の教員/職員の存在も考えると、上記のデータで精緻な解釈をすることは難しい。また、医学部の有無によって教職員のあり方は大きく変わってくると思うため、例えば病院職員を抜いて比較することなども必要かもしれない。

 とはいえ、教員と職員の比率を考えるという、国内大学だけを見ていてはあまり気を払わないかもしれない点について、目を向けてより深く考えていく一助にしてもらえれば幸いに思う。

「河野太郎の大学の悩み聞きます@東京大学五月祭」に関する考察

 日曜日の東京大学五月祭において、政治家の河野太郎氏を招いた大学の問題に関するイベントが開催された。そのなかで、九州大学の大賀哲先生と一橋大学の川口康平先生による、競争的資金の間接経費の運用方法についての要望がなされた。その要望を簡単に述べると、
・競争的資金の間接経費を当該研究者の研究の生産性向上のために活用すること
・現行の状況の背景にある基盤的経費の削減に対策を講じること
の二点である。私としてはお二方の提案に概ね賛成なのであるが、その背景にあることや、実現の難しさについて考察したことを以下に書いておく。
 なお、要望書や当日の発表資料についてはこちらを参照のこと。また、当日の議論に関しては、河野太郎の大学の悩み聞きます@東京大学五月祭(とその後の反応) - Togetterまとめで概要を掴むことができる。

1.はじめに:前提として

1.1.権限の問題

 河野太郎先生はWord罫線問題(科研費のWord罫線問題に河野太郎氏が反応してくださった話 - Togetterまとめ)や神エクセル問題(河野太郎議員(@konotarogomame)とネ申エクセル問題&オープンデータの話 #ネ申エクセル #ネ申殺し - Togetterまとめ)等で、最近大学の問題に多く関わっている。実際その働きかけによって実現したものがかなりあり、それらの問題の解消は評価すべきものだと思われる一方で、権限の観点からとして危うさがあるのではないかと感じている。
 というのも、国立大学法人はあくまで国から独立した法人であり、政治家⇔行政(文部科学省)⇔国立大学というラインで上位から権力行使されるのは可能な限り抑制されるべきだと思うからである。確かに、国立大学の側が自主的に解決することがあまりにもできないからそのような介入が入らざるを得ない点もあるのかもしれないが、大賀先生のところにこの件について事務職員の方から提示された意見(間接経費・要望書の件で | 九州大学国際政治学教室)のように、本来ならば自主的に解決されるべき事象であり、政治家経由の介入が頻繁に行われたという事実を作ることが将来に悪く響かないことを願っている。

1.2.運営費交付金の減額

 もう一点、前置きとして前提の話をしておくと、大賀先生/川口先生がそもそもの問題として述べていることであるが、近年の国立大学法人における運営費交付金の減額は間接経費の問題にも関わる重大な問題である。運営費交付金が減少し、基盤的な経費が不足しているからこそ、競争的資金に伴う間接経費を基盤的な運営経費として活用せざるを得ないという事情がある。
 また、経費の問題に加えて、事務職員の少なさと専門性の低さも指摘しておくべきだろう。河野太郎議員はかつて法人化後の事務職員の増員を問題提起するようなブログを投稿していたが、そもそも法人化の時点で国家公務員削減の流れで人員は少ない状態であり、また法人化に伴い業務量も増大しているなかで、増員した今でも不十分であると思われる。この点については、若干古いデータではあるが、以下の海外大学との比較データを見てみると、その違いがよく分かる。

f:id:futaba_szk:20170522175023j:plain 図1:「世界の有力大学の教職員の構成」
出典:東京大学国際連携本部国際企画部[2007]「世界の有力大学の国際化の動向調査報告書」、p. 34

 なお、このデータにおいて「アカデミック・スタッフ」は大学によって差異があり、比較には注意が必要である(表1、2を参照)。そして、東京大学のデータにおいては助手がアカデミック・スタッフに含まれている。これは、2006年のデータであるためこのようになっている。2007年から助手の大部分が教員としての助教に変更される。すなわち、上記のデータでアカデミック・スタッフに区分されていたものの大部分が教員の区分に移動することになり、それによって(AS+職員)/教員の値は2.2から1.1まで急激に減少することになる(表3を参照)。

f:id:futaba_szk:20170522175107j:plain 表1:世界の有力大学の教職員の名称・分類(1/2)
出典:同、p. 67

f:id:futaba_szk:20170522175144j:plain 表2:世界の有力大学の教職員の名称・分類(2/2)
出典:同、p. 68

f:id:futaba_szk:20170523103752j:plain 表3:東京大学の教職員の構成 出典:「職員数(平成18年5月1日現在) | 東京大学」「職員数(平成19年5月1日現在) | 東京大学」「職員数(平成27年5月1日現在) | 東京大学」より筆者作成

※追記:参考までに2015.5.1時点のデータも追加した。なお、統計区分が変化していたので、表4のように処理してある。その結果、2007年と比較して(AS+職員)/教員比率およびAS/教員比率は若干上昇したが、依然として低い数値のままになっている。また、職員/教員比率は変化していない。

f:id:futaba_szk:20170523133659j:plain 表4:2015.5.1時点のデータの処理 出典:筆者作成

 なお、事務職員の専門性については、重要な論点であるものの、採用や人事まで関わってくる複雑な話であるため、今度時間があるときに別にまとめたいと思う。ここでは、ともかく教員を支えるスタッフの割合が海外の大学と比較して著しく小さいということを指摘しておきたい。

2.競争的資金と間接経費について

2.1.競争的資金と直接経費/間接経費の定義

 競争的資金とは、「資源配分主体が広く研究開発課題等を募り、提案された課題の中から、専門家を含む 複数の者による科学的・技術的な観点を中心とした評価に基づいて実施すべき課題を採択し、研究者等に配分する研究開発資金」(第三期科学技術基本計画より、出典)である。そして、競争的資金に関する関連府省連絡回申し合わせ「競争的資金の間接経費の執行に係る共通指針」(以下、「共通指針」と呼ぶ。)によると、直接経費とは「競争的資金により行われる研究を実施するために、研究に直接的に必要なものに対し、競争的資金を獲得した研究機関又は研究者が使用する経費」であり、間接経費とは「直接経費に対して一定比率で手当され、競争的資金による研究の実施に伴う研究機関の管理等に必要な経費として、被配分機関が使用する経費」である。また、間接経費導入の趣旨は、競争的資金による研究の実施に伴う研究機関の管理等に必要な経費を、直接経費に対する一定比率で手当することにより、競争的資金をより効果的・効率的に活用する。また、間接経費を、競争的資金を獲得した研究者の研究開発環境の改善や研究機関全体の機能の向上に活用することにより、研究機関間の競争を促し、研究の質を高める」とされており、原則的に直接経費の30%に当たる額を間接経費とするようにしている。共通指針のなかでは、間接経費の主な使途として、次のものが例示されている。

区分 詳細
(1)管理部門に係る経費 (ア)管理施設・設備の整備、維持及び運営経費
(イ)管理事務の必要経費:備品購入費、消耗品費、機器借料、雑役務費、人件費、通信運搬費、謝金、国内外旅費、会議費、印刷費
など
(2)研究部門に係る経費 (ウ)共通的に使用される物品等に係る経費:備品購入費、消耗品費、機器借料、雑役務費、通信運搬費、謝金、国内外旅費、会議費、印刷費、新聞・雑誌代、光熱水費
(エ)当該研究の応用等による研究活動の推進に係る必要経費:研究者・研究支援者等の人件費、備品購入費、消耗品費、機器借料、雑役務費、 通信運搬費、謝金、国内外旅費、会議費、印刷費、新聞・雑誌代、光熱水費
(オ)特許関連経費
(カ)研究棟の整備、維持及び運営経費
(キ)実験動物管理施設の整備、維持及び運営経費
(ク)研究者交流施設の整備、維持及び運営経費
(ケ)設備の整備、維持及び運営経費
(コ)ネットワークの整備、維持及び運営経費
(サ)大型計算機(スパコンを含む)の整備、維持及び運営経費
(シ)大型計算機棟の整備、維持及び運営経費
(ス)図書館の整備、維持及び運営経費
(セ)ほ場の整備、維持及び運営経費
など
(3)その他の関連する事業部門に係る経費 (ソ)研究成果展開事業に係る経費
(タ)広報事業に係る経費
など
※上記以外であっても、競争的資金を獲得した研究者の研究開発環境の改善や研究機関全体の機能の向上に活用するために必要となる経費などで、研究機関の長が必要な経費と判断した場合、執行することは可能である。なお、直接経費として充当すべきものは対象外とする。

出典:共通指針、別表1

2.2.間接経費運用の現状

 上記のような共通指針に対して、現状の国立大学においては間接経費の大部分が大学全体の運営経費として活用されていると思われる。あるいは、少なくとも競争的資金を獲得した研究者が、自らの研究の推進にあたって間接経費が十分に活用されているとは感じていないようである。
 また、共通指針では、基本方針として「被配分機関にあっては、間接経費の使用に当たり、被配分機関の長の責任の下で、使用に関する方針等を作成し、それに則り計画的かつ適正に執行するとともに、使途の透明性を確保すること」ということが述べられているにも関わらず、各機関において方針が明示されておらず、間接経費の使途についても透明性があるとは言い難い。
 間接経費を機関全体の運営に対して利用することは上記の例示にもあるように趣旨に反するとは言い難いものの、間接経費の一定割合が競争的資金を獲得した研究者の教育負担や事務負担を削減するために活用されるのは、研究を進めていくインセンティブとして当然のことであると思う。これは、科研費に限らず大型の研究プロジェクトでもそうで、結局構想をまとめる/マネジメントを行う役割を担うのはババを引くようなもので、「自分に仕事が降ってくるだけだから大型のプロジェクト資金には応募したくない」ということは耳にすることである。
 またそもそも、競争的資金の獲得は機関評価に活用されるもので、競争的資金獲得→評価高→運営費交付金高が成り立つのであれば、間接経費を機関の運営費に使うのは不適切であるように感じられるし、大学の評価を上げるため、間接経費を通じた運営経費を集めるために所属研究者に競争的資金への応募を強いるのは望ましくないと思うのである。

2.3.間接経費が適切に使用されるようになったなら

 今回要望がなされたように、間接経費を競争的資金を獲得した研究者の研究環境の向上のために活用するというのはもっともなことである。ある程度はそのようになればいいと思う。しかし、そうするとすればこれまで本部に吸い上げられていた資金が当該研究者の方に配分されるようになるのであろう。そうするとその先に予想されるのが、(もう既にほとんどない)本部から学部への資金が減少するということである。運営費交付金自体をどうにかしなければ、結局本部から部局を通して薄く広く配られる資金が、競争的資金を獲得した研究者の間接経費の措置に振り返られるだけかもしれない。確かに、アメリカでは部局予算ゼロで外部資金による研究費獲得のみでやっているところは存在し、そういう方向性もなくはないのかもしれない。
 ただ、基盤研究費の付与をゼロにして、全てを競争的資金にするのが適切かというと、いくつか考えるべきポイントがあると思うのである。まず、競争的資金に応募するコストに対して研究のコストが見合うのかというものがある。例えば、数学の研究者であれば、それほど研究にコストはかからず、競争的資金に申請する労力をかけるくらいなら部局の非常に少額な部局経費で研究を行った方が効率的かもしれない。
 次に、競争的資金というものは不採択の際にいきなり研究費がなくなるリスクが存在する。そのような事態に陥ると、例えば実験動物の維持さえ行えない状況になりうる。その上、競争的資金の研究成果は2~5年程度で求められるのが一般的である。研究は、短期スパンで行われるものと長期スパンで行われるもののポートフォリオを組むべきだと私は考えているが、そうした長期スパンの研究を担保するためにも、あるいはときには競争的資金をあえて取らずにじっくりと研究に取り組む時間を確保するためにも、基盤的経費には意義があるのではないだろうか。ただ、確かにその運用は非常に難しいし、競争的資金の一部を研究計画外の研究に利用することができるような制度を作るなど(非常に難しそうだけれど…)、他の方法で担保することもできるかもしれない。

3.おまけ:教員給与の見方

 今回の要望のテーマにはなっていないが、要望者の川口先生は国内外の大学教員の給与格差の問題について話題になった(「給料格差ツイート、狙ってやった」 日本捨てる若手学者の危機感 - withnews(ウィズニュース))。この点について、若干の言及をしておく。まず、給与額以前に内定後の雇用契約が書面で通知されない、着任してからでないと給与額がわからないというのは大きな問題である。雇用の条件を明確にすべきというのは、他の機関との交渉のためという以前に労働契約として当然のことであろう。
 次に、大学教員の給与の額を他の職業と比較するならば、いくつかの前提を認識する必要がある。それは、以下の通りである。  まず、大学院時代は(減免がある場合もそれなりにあるが)学費を払って学ぶのが通常である。研究者になることが仕事だとあまり認められていない日本では、大学院で研究をするということに対して、好きなことをやることがで羨ましいという目が周囲から向けられがちである。仮に学振DCを取ったとしても、十分な金額とは言い難く、社会保険は無く、兼業禁止規定が設けられている。学位を取っても、多くの人がポスドクやや非常勤講師として不安定な初期キャリアを築くことになる。その先では任期付きの先の見えないポストに就くことが多く、教育系の特任に就く場合は研究ができないリスクもある(例えば、新潟大学の教育GPについて赤裸々に述べてある、大島勇人/浜島幸司/清野雄多[2013]『学生支援に求められる条件:学生支援GPの実践と新しい学びのかたち』東信堂、が参考になる)。テニュアのポストを得られたとしても、現在は多くの大学で昇任が凍結されている。現在広まっている年俸制雇用では、退職金がなく、最終的に教授にまで昇格するのは結構年を取ってからになる。
 つまり、
・安定的な初期キャリアに就くまでが不安定
・そもそも不安定なポストに就くまででも長期間な投資が必要
・どこかでキャリアチェンジをするにも、日本の人材マーケットでは外部からの需要が小さい
テニュアを得られたとしても給料が低い
・キャリア全体を通して福利厚生が貧弱
という状況であり、一時点の給与額を見て安易に判断をするのは適切ではないということに注意しなければならないのである。

Twitter検索ツール

 Twitterで情報収集するにあたって、便利な検索ツールを調べたのでまとめておく。

特定用途

リツイート数 min_retweets:100
・ファボ数 min_favs:100
・言語 lang:ja
・ユーザーID from:userID/to:userID/@userID
・期限 since:2000-01-01/until:2001-01-01
 ※日本時間 since:2000-01-01_JST_01:00:00 until:2001-01-01_JST_11:00:00
・リスト内 list:userID/listname
・場所 near:me/near:東京
・ポジティブ/ネガティブ :)/:(
・その他 "A"/A OR B/A -B

操作変数

・含む/除外/限定 include:/exclude:/filter:
・投稿元 source:

対象変数

・公式RT nativeretweets
・リンク links
・認証アカウント verified
・画像 images
・動画 videos
・画像と動画 media
・ニュース news

「みんなで翻刻」とニコニコ超会議

 4/30に幕張メッセにて行われたニコニコ超会議に行ってきた。超歌舞伎とかもろもろ気になるものはあったのだけれど、そのなかでもニコニコ超学会の「研究してみたマッドネス」(これは29日のプログラムで行き損ねた。悔しい)、そして「みんなで翻刻」に特に感心を持っていた。

 ということで、ずっと気になっていたものの手を出すことのなかった「みんなで翻刻」を体験することができたので、ニコニコ超会議にブースを出すということも含めつつプロジェクト全体について感じたことを書いておく。なお、以下は基本的に私の解釈にすぎない(そしてあまり詳しくないので以下の記述は正確性に乏しいかもしれない)ということと、「みんなで翻刻」プロジェクトに対しては非常に好意的なスタンスであることを予め述べておきたい。

「みんなで翻刻」プロジェクトとは?

 はじめに、「みんなで翻刻」プロジェクト(HP)に関して簡単に紹介しておこう。このプロジェクトは、京都大学地震研究会による災害史料の市民参加型翻刻プロジェクトであり、2017年1月に公開された。江戸時代以前の、現代語とは書記体系が異なる(「くずし字」)史料をクラウドソーシングにより市民の手で翻刻していく。アプリ(くずし字学習支援アプリKuLA)を用いた学習の観点や、参加者間の相互添削の試みを含めた、先進的な取り組みである。

背後の潮流

 大きな話でいくと、世界的な政策の潮流であるオープンサイエンス、シティズンサイエンス、デジタル・ヒューマニティーズ等の潮流に乗った取り組みと言えよう。ただし、こうした潮流に対して日本では例えば図書館司書の位置づけや、市民による科学への参加、史料の保存や公開に対する姿勢など、様々な面でネックになる部分があると思っていて、そのなかで「みんなで翻刻」のようなプロジェクトが進むのかどうかに対しては懐疑的な考えを抱いていた。

ニコニコ超会議を通して考えたこと

 ここからは、実際にブースに行ってやりとりをしながら考えたことをつらつらと書いておく。

プロジェクトの意義とマネタイズ

 一般的な話として、日本ではかなり過去の史料が重要だとみなす意識は弱いと思われる。それは、文書館がどれだけ大事にされているかというところから推測される。そんな風土がある国において、このような翻刻プロジェクトは進むのか?あるいは資金を得られるのか?というのが疑問であった。その点については、地震関係史料ということが対応していたようだ。そもそも数百年レベルのものが確率的に推測できるのかどうかという点の疑いはおいておいて、文書への記述があるかどうかは過去に自然災害があったということの証拠になる。ということで、そうした災害関連文書を地震学者が読むことができれば研究に使いうるのであるが、くずし字という特殊な文字体系であるためそれは難しい。そこに対して、プロジェクトとして取り組むことで地震学者が活用できるように「解読」し、地震研究に活用することができるというのがプロジェクトとして打ち出している方向性のようである。そうして、下手すれば趣味とみなされかねない文献解読に意義付けて、それに資金をもらっていると思われる。

データベース構築と機械学習

 くずし字は異体字が多すぎるため、なかなか判読は難しい。しかし、それを大量にデータ化することで、統計的に推測が容易になってくる。プロジェクトの進展に際して文字データが蓄積されていき、また文字レベルに加えて分レベルのコーパスがデータとして蓄積されていく。これにより大量の学習用データとして利用できるようになり、機会学習による自動翻訳につながっていくこともあるのではないだろうか。そしてそこまでできるようになってくると、この入口は地震文書であるものの、同時代の他の文書にまで解読技術が応用されうるようになってくる。そのような技術が開発されれば、写本の誤転記などまだクリアしなければいけない問題はあるものの、解読の手助けになることは間違いないだろう。

市民参加の科学

 そもそも日本では市民が科学に参加するということは弱いと思っていて、オープンサイエンスの文脈で「シティズンサイエンス」に言及されるときも、その意味内容について明確なイメージが持てない状態でいた。そこで、このプロジェクトについても本当に人は参加するのかどうか懐疑的であった。しかし今回参加して思ったのは、入り口としては学習ゲームアプリとしてゲーミフィケーションの要素を取り入れ、他者との交流があり、翻刻画面のUIも使いやすくて、あまりかしこまった「科学」への取り組みだと感じさせないことで一般の参加を促しているように感じられた。こうした成果については、メールマガジン『人文情報学月報』第69号における橋本雄太「人文学における市民参加と人文情報学」において、以下のように述べられている。

 幸いなことに、これまでプロジェクトは順調に進捗しており、公開から105日目が経過した現時点で、3193枚ある史料画像の89%の翻刻が完了している。参加者により入力された文字の合計は180万字に達した。筆者が所属する京都大学地震研究会は、2011年から歴史地震史料を解読する活動を続けているが、現在までに翻刻できたテキストは15万字程度である。その約12倍の量のテキストが、4ヶ月に満たない期間で入力されたことは、筆者を含む研究会メンバーにとって大きな驚きであった。もっとも、専門研究者が複数で検討した翻刻文と比較すれば、正確性の面では問題が多い。今後は、専門家の介在のもと、「みんなで翻刻」上で入力されたデータを校訂し、研究資料として活用に繋げる仕組みを構築することが課題である。

 参加者を対象に実施したアンケートの結果によると、翻刻作業の中核を担ったのは、学生時代に日本史や日本文学を専攻していたOBや、カルチャーセンターや市民サークルで古文書解読を学習している非研究者の方々であった。「みんなで翻刻」を運営していて強く実感したことは、このような在野の人々の能力の高さと、史料解読に向ける情熱の強さである。参加者の中には、公開から3ヶ月の間に、21万字(!)を翻刻した人もいる。こうした人々の存在は、なかなかアカデミア内部からは見えにくい。しかし人文情報学は、ネットワーク技術を駆使して、地域や所属に関わらず人々を結びつけることができるという強みを有している。市民の人文学研究への参加を実現する上で、人文情報学は今後も主導的な役割を果たすことになるだろう。

科学のオープン化

 こうした史料の電子化や翻刻、そこから派生するメタデータ管理は、オンラインで様々な史料にアクセスができる環境を構築していく。これは、日本人の研究者に利用されるだけでなく、一般市民が読むことはもちろん、海外の研究者にとっても一次史料を活用できるようになっていく。外国人による日本研究がどうあるのがいいのかは色々と悩ましいことがあるだろうが、一次史料にアクセスできるようになり、かつくずし字という難しい言葉で書かれたその史料を解読するための補助が得られることは、海外における日本研究を促進するのではないだろうか。

ニコニコ超会議

 どうしてもこういう取り組みはアカデミア周辺、それもデジタル・ヒューマニティーズの界隈の人々か、あるいは地震研究に関わる人々に限定されがちなのではないかと思われる。それが、ニコニコ超会議という、アカデミアの世界とはあまり縁のないであろう人々にリーチする機会となり、しかも上記のようにゲーミフィケーションをふんだんに含んだものにまず試してみるように促すことで、自然にプロジェクトに参与していくことができるようになっている。また、その取り組みはリアルタイムでニコニコ動画で放送され、リアルとネットの双方からプロジェクトを広報するようになっている。人文学というとどこか専門家が趣味的にやっているというイメージが強そうなのではないかと思われるなかで、このように研究に触れる機会を作っていく場として、ニコニコ超会議のような取り組みは非常に興味深いと思われた。

最後に(どうでもいい)

 くずし字アプリはKuLAというのだが、京都大学のURA室がKURA(Kyoto University Research Administration Office)で、いつも一瞬戸惑う。笑

補助金事業に駆り出される任期付教員の悲哀

 大島勇人/浜島幸司/清野雄多『学生支援に求められる条件:学生支援GPの実践と新しい学びのかたち』(東信堂、2013年)を読んだ。この主題は「補助金事業に駆り出される任期付教員の悲哀」というわけではないのだが、節々から醸し出される悲哀を感じずにいられなかったためにこのようなタイトルにしてしまった。ご容赦願いたい(笑)

 さて、本書は、新潟大学における学生支援GPの取り組みについて、学生支援の部署の担当となった教員、プログラムの中心的役割を果たした任期付教員、参加者の学生の三者それぞれによるプログラムの振り返りと、そこから導き出される教訓について述べた本である。主題としては学生支援プログラムがテーマになるわけであるが、現在の大学経営について一般的に当てはまる事象が多く取り上げられていたように思うので、自分なりに感じ取ったことを簡単にまとめておく。

1.使い捨てられる任期付教員

 特にこの事例に限られることではないが、最近の補助金事業では、とかく特任教員が濫用されている。大学院重点化やポスドク100万人計画で急増することになった若手研究者は大量に滞留している一方で、大学への運営費交付金は減少し、終身のポストは退職しても補充されずという状況が広がっている。そのようななか、大型の補助金事業の「労働力」として「使い捨て」かのように使われる任期付教員が大量に増えている。色々と気になる面はあるけれども、本書の例のように全学で取り組む大型補助金事業において、組織内の政治力学を把握しているわけではなく、任期が切れたらどうしているか不安ななか特に愛着もない大学に流れ着いている任期付教員に補助金事業を任せるのはいかがなものか。もちろん、ポストを得る以上信念を持って力を尽くす任期付教員はいらっしゃって、そうした方々の努力には感心するものがあるが、そうした体制でいいように使う組織はどうかと思う。

2.採用のミスマッチ

 本書のなかでは、ひたすら各種調整を行うポストが自分には適切ではなかったと思われるとの記述がちらほらと散見された。この事例が特殊なのかはわからないものの、採用の際に職務の内容が明確化されていない状態であったのではないだろうか。大学の採用一般として紙面での契約が明確でないというのはよくある話であるそうだし、この件とは話が異なるが、「デキ公募」の話もしばしば耳にすることで、このあたりの採用慣行をきちんと考え直す必要があるのではないだろうか。それに加えて思うのは、大学よりも専門家コミュニティに帰属意識を持つのが一般的な大学教員が、より組織としての大学の教育の質を高めていくために、大学への所属意識を高めるための採用方法を検討した方がいいのではないだろうか。

3.プログラムの理念と組織構成

 本書でしばしば語られるのが、そもそもプログラムの理念が非常に曖昧であって、かつその理念を組織全体として検討する機会もなく、末端の人たちにとっては意思決定の判断基準が見えなかったということであった。さらに、プログラムが学内政治の手段として利用され、そのしわ寄せは任期付教員や学生に降りかかることになってしまった。なんというか、非常にしょうもない話である。競争的資金を取るための調書を作り、資金を取ったら終わりなのではなく、そこからどういう体制を取って、どういうマネジメントを行っていくのかが何より大事なわけである。学内政治力学を理解し、経験の豊富な職員がプログラムマネージャーとしているのがいいのではないかという指摘があったが、この点に関しては国立大学では職員の立ち位置も微妙なところがあるかもしれない気がするが、ともあれ任期付教員が中心的役割を担って上手くいくはずがないというのは真実であろう。

4.関係性能力としてのリーダーシップ

 本書の内容からは多少それるが、リーダーシップとは結局関係性能力なのだと改めて感じた。上から見れば主体的に動こうとする人間を信頼し、サポートする体制(予算、失敗への寛容性等)が必要だし、下から見ればリーダーに従っていくフォロワーシップが重要である。もちろん、それらを引き出していく力というものも重要なのかもしれないが、クソみたいな環境のなかであがいて絶望していく人に対しては同情の意を感じざるを得ない。

5.学生の主体性

 「自由にやってもいいよ」と言っても、結局何をやっていいかわからずに戸惑ってしまうのが現実であるらしい。何となくその状況は分かる。しかし、ここのボトルネックはどこにあるのだろうか。最近思うのは、ひょっとしたら主体性は全員に求めるものではないのかもしれないということだ。それよりも、上から降ってきたものであれ、きちんと目標管理をして適切な期間内にある程度の成果を出す力の方が基盤的に重要なのではないだろうか。この力だけでも、できていない人が多いのではないかという気がしている。

"イノベーション"の定義について

曖昧な「イノベーション

 イノベーションイノベーションイノベーション、…、最近ではこの言葉があちらこちらに溢れている。科学技術政策の統括を行う、内閣府の「総合科学技術・イノベーション会議」においても、会議の名称にこの言葉が含まれていることから分かるように、「イノベーション」が重要視されている。確かに、日本が近年の新産業創出の波に乗り切れていないのは、世界の企業の時価総額ランキングの上位を新興IT企業が占めていることから示唆されることである。そして、人口構造の変化やアジア等の国家の躍進から日本の相対的地位が低下していくなかで、新産業創出が重要になってくるというのも確かである。しかし、これは本当に「イノベーション」で解決できる問題なのだろうか?

 正直、おそらくその見立ては間違っていないように思う。しかし、そういった議論が非常に胡散臭く感じてしまうのは、「イノベーション」という言葉があまりにも雑に使われ過ぎているからではないだろうか。「イノベーション」といえば、アップルがまず挙げられる。確かに、iPhoneは「イノベーション」と言っていいだろう。しかし、かつてのトヨタの「カイゼン」も「イノベーション」に含まれて良いのではないか。AmazonAmazon Dash Buttonを聞いたとき、これは非常に革新的であるとに感じた。これも「イノベーション」に含んでいいだろう。(この話は「Amazon Dash Buttonは何がヤバイのか – ところてん – Medium」を読んでなるほどとなった。)しかし、これら全てを同じ「イノベーション」という言葉で規定するは、雑な用語法だと感じないだろうか。

 要するに、「イノベーション」はもう少し類型化して捉えるべきだと思うのである。そして、それの総称として「イノベーション」という言葉を利用する。個別の議論においては、類型を念頭に置いた上で議論を積み重ねていかないと、生産的な議論にはならない。

NISTEPの4つの「イノベーション

 そんなことを考えていたときに、文部科学省科学技術・学術政策研究所第1研究グループによる『第4回全国イノベーション調査統計報告』という報告書を目にした。そのなかの「イノベーション」の4つの分類が、自分にとって非常に納得感のあるものであったため、下に引用しておく。

「プロダクト・イノベーション

 プロダクト・イノベーションとは、技術仕様、部品・材料、組み込まれているソフトウェア、使いやすさ、又は他の機能的特性といった点について、新しい又は大幅に改善された製品(商品)又はサービスの市場への導入を意味する。本調査でのプロダクト・イノベーションは、自社にとって新しいものと定義し、必ずしも市場にとって新しい必要はない。また、プロダクト・イノベーションには、新しい知識又は技術の活用のみならず、既存の知識又は技術の新たな利用や組み合わせに基づくものを含んでおり、既存の製品及びサービスであっても、機能的あるいはユーザ特性の点について、新しく又は大幅な改善があれば、それらはプロダクト・イノベーションに含まれる。しかしながら、製品の機能的特性あるいは用途の点で大幅な変化を伴わないデザインの変更や、ルーチン化されたアップグレードあるいは定期的・季節ごとに行われる変更は、プロダクト・イノベーションに含まれない。

「プロセス・イノベーション

 プロセス・イノベーションとは、新しい又は大幅に改善された生産工程又は配送方法の自社内における導入を意味し、技法、装置(機器)及びソフトウェアに関する大幅な変化もその対象とする。ここで、生産工程とは、製品やサービスの生産(提供)に用いられる技法、装置(機器)及びソフトウェアを指している。一方、配送方法とは、企業のロジスティクスに関係する方法であって、投入物を調達するための装置(機器)、ソフトウェア及び技法のみならず、企業内での物品の割り当て、あるいは最終製品の配送を含んでいる。本調査でのプロセス・イノベーションは、自社にとって新しいものであると定義し、自社が必ずしもこのプロセスを導入した最初の者である必要はない。また、プロセス・イノベーションは、付随的な支援活動(例えば、購買、会計、コンピュータ処理、メンテナンス)における新しい又は大幅に改善された技法、装置(機器)及びソフトウェアにも及ぶ。なお、本調査でのプロセス・イノベーションは、1単位当たりの生産コスト又は配送コストの減少、質の向上、若しくは新しい又は大幅に改善された製品又はサービスの生産あるいは配送、といった成果が意図されたものである。

マーケティングイノベーション

 マーケティングイノベーションとは、製品又はサービスのデザイン又は包装の大幅な変更、販売経路、販売促進方法、あるいは価格設定方法に係る新しいマーケティング方法の自社内における導入を意味する。ここで、製品又はサービスのデザイン又は包装の大幅な変更とは、製品又はサービスの機能性やユーザ特性の変更を伴わない形態や外見に関する変化を指している。販売経路とは、フランチャイズ・システム、直売・排他的販売、ライセンシング等の製品又はサービスの販売方法に関係する方法であって、輸送、保管及び取扱い(ハンドリング)といったロジスティクスに関する方法は含まれない。販売促進方法とは、製品又はサービスの販売促進に関する新しい概念(コンセプト)の活用であり、異なる媒体又は手法(例えば、映画やテレビ番組での製品及びサービスの露出、著名人による使用、新しいブランドの構築、ポイントカード等の個人向け情報システム)の初めての活用を指している。価格設定方法とは、製品又はサービスの販売に関する新しい価格戦略を指し、例えば、需要によって変動する価格設定やウェブ上での顧客の好みの製品仕様に応じた価格設定がこれに当たり、消費者のセグメントに応じて単に異なる価格を設定することは対象としない。また、定期的又はある一定の周期で行われるマーケティング手法の変更は、マーケティングイノベーションには含まれず、すでに自社内の他の製品で活用された概念(コンセプト)に基づくデザイン又は包装の変更や、地理的に新しい市場又は新しい市場セグメントの開拓のために行われた既存のマーケティング方法の活用は、マーケティングイノベーションに含まれない。

「組織イノベーション

 組織イノベーションとは、企業の業務慣行、職場組織又は社外関係に関する新しい方法の自社内における導入を意味している。ここで、業務慣行における組織イノベーションとは、業務の遂行に関するルーチンや手順を組織化するための新しい方法に関するものであり、企業内における学習や知識共有を促す新しい慣行の実施を含んでいる。例えば、知識の体系化(例えば、ベストプラクティスや講習等のデータベース化)や従業員への啓発や労働者の定着に向けた取り組み(例えば、教育、訓練システム)、製造全般又はサプライ・オペレーションに関する経営管理システム(例えば、サプライ・チェーン・マネジメントシステム、ビジネスリエンジニアリング、リーン生産、品質管理)がこれに当たる。職場組織に関するイノベーションは、従業者への意思決定権限の移譲や従業者による提案の奨励といった企業活動(組織単位)内及び企業活動(組織単位)間での業務分担に係る従業者間での責任又は意思決定の割り当ての新しい方法に関係している。社外関係に関する新しい方法は、他の企業又は公的機関との関係を構築するための新しい方法に関係している。例えば、研究機関又は消費者との新たな連携、サプライヤーとの統合に関する新しい方法、製造・調達・物流・求人・付帯サービスのアウトソーシングや下請けがこれに当たる。本調査での組織イノベーションは、経営戦略に基づいて実施された組織に係る新しい方法の導入であって、自社内で既に実施済みの方法は含まれない。また、合併や買収は、それが企業にとって初めて実施されたものであっても、組織イノベーションには含まれない。

地に足のついた「イノベーション」論に向けて

 上の報告書では、イノベーションを「プロダクト」、「プロセス」、「マーケティング」、「組織」の4つに類型化している。iPhoneはプロダクト、トヨタカイゼンは組織、Amazon Dash Buttonマーケティングに該当するだろう。これらを分けて認識することには、非常に納得感がある。細かく言えば、例えばプロダクト・イノベーションの「自社にとって新しいものと定義し、必ずしも市場にとって新しい必要はない」という記述は、対象を広く取りすぎてしまうのではないかという懸念はあるものの、4類型としてイノベーションを捉えること自体の有用性は損なわないだろう。類型化をして分析的に捉えることは、議論を複雑にしてしまう可能性はある。とはいえ、様々な要素を含むものを雑駁に議論することで有用な知見が創出されるとは思わない。他の議論においても、納得感のある適切な分析概念のもとで議論が進められて欲しいものである。

参考文献:文部科学省科学技術・学術政策研究所第1研究グループ[2016]『第4回全国イノベーション調査統計報告』(NISTEP REPORT No. 170), pp. 55-56.