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ふたばの日記

高等教育や学術政策に関心がある大学生のブログです。考えたことのメモなど。

AIが人間の仕事を奪う?論文について

1.はじめに

 最近、「AIによって○○年後に○○%の仕事が失われる」としばしば語られる。多くの機会で枕詞のように語られるこれは、わかりやすくセンセーショナルな主張にすぎないと思っている。それに応じて、学生のキャリアについて語るときに、「○○年後には○○%の仕事が失われるんだ、では君たちはどうやって生きていく?」というフレーミングがされる。確かに、そのように考えることの重要性を全否定するわけではないが、この前提が問われることがないことには非常に違和感を抱く。誤った前提に基づいて導き出される結論は、当然誤ったものになるのである。そこで、今回はこうした主張が行われるもととなった論文を確認することにした。

2.対象論文について

 私の確認した限りでは、こうした議論の発端になったのは、オックスフォード大学のCarl Benedikt FreyとMichael A. Osborneの論文、‘The Future of Employment: How Susceptible are Jobs to Computerisation?’のようである。これは、2013年に発表されたのであるが、いわゆる学術雑誌の論文ではなく、一般向けに報告書として公開されたものだ。全72ページではあるが、末尾は検討された職業の一覧であり、本文は45ページ分である。

2.1.データ

 分析に利用されたデータは、まず米国労働省のO*NETのデータである。これは、903の職業について詳細な記述がされている。それに加えて、労働省のStandard Occipational Classification(SOC)も利用している。こちらの方は、賃金データ等も揃っている。この論文においては、双方が対応するものにデータを限定して、702の職業を分析対象にしている。

2.2.分析方法

 論文の分析は、(1)教師データの選定、(2)モデル化、(3)モデルの適用の三段階で行われている。

(1)教師データの選定

 まず、機械学習の研究者とともに、機械で代替可能/不可能であると確信を持てる70の職業を主観的に判断する。機械で代替可能ものを1、不可能なものを0とし、これはO*NETのJob Disctiptionにもとづいて判断された。

(2)モデル化

 "Perception and Manipulation"、"Creative Intelligence"、"Social intelligence"の3つを機械化にあたってのボトルネックだと定めた上で(p. 24)、データから3つのボトルネックに対応する変数を抽出する。 f:id:futaba_szk:20170222175057j:plain 出典:p. 31

 そして、教師データとした70の職業について、上記の変数と機械の代替可能性(0 or 1)が対応するようなモデルを設計する。

(3)モデルの適用

 上記のモデルを、702の職業全体に適用する。分析結果は、0-0.3をLow、0.3-0.7をMedium、0.7-1.0をHighに分類すると、それぞれ33%、19%、47%で、ここから代替される可能性のある職業が47%と言われた。 f:id:futaba_szk:20170222175217j:plain 出典:p. 37

3.分析結果をどう見るか?

 このように、論文を詳細に見てみると、いくつか解釈の余地があると感じられる。

3.1.データの問題

 まずは、データの問題である。分析対象になっているのが、O*NETの903の職業のうちの702であるが、職業へのインパクトを考えるのであれば、職業数ではなくその比重も考えなければならない。そもそも903と702で、除かれた職業が労働者が極めて多いものであるのかもしれないし、分析対象になった703のうちでもそれは注意すべき点である。すなわち、702の職業のうち47%で機械による代替可能性が高いからといって、47%の労働者が代替可能性の高いものであるとは言えないのである。
 次に、分析に利用した変数の妥当性が気にかかる。個別の変数と代替可能性の散布図を見てみると、以下のようになる。 f:id:futaba_szk:20170222175202j:plain 出典:p. 35
 もちろん、単純に線形相関をすると考えるのは正しくないのであるが、個人的には下3つの散布は気になる。そこで、下の3つ、"Perception and Manipulation"(知覚と操作)にあたる変数を詳細に見てみると以下のようになる。

O*NET 変数 O*NETの記述
指の器用さ 非常に小さな物体を掴む、操作する、あるいは集めるために片手または両手の指を精密に調和させて動かす力
手の器用さ 物体を掴む、操作する、あるいは集めるために片手や、片手と腕、両手を素早く動かす力
窮屈な労働空間、不格好な姿勢 その仕事では不格好な姿勢になることを強いる窮屈な労働空間で働くことをどれくらい要するか

出典:p. 31より作成

 なんというか…よくわからない。とりわけ、3つめなどよくわからない。"Creative Intelligence"や"Social Intelligence"の内容はまあ理解できるのだが、上記の"Perception and Manipulation"にあたる3つに関しては、なぜこれを機械の代替可能性の指標とするのだか、はっきり言って理解しがたい。

3.2.結果の解釈について

 この論文における結論は、あくまでも現状の702の職業カテゴリのうち、47%では機械による代替可能性が高いというものにすぎない。まず言えるのは、その職業区分が妥当かということである。単純に考えて、1つの職業区分には、代替可能性が低いとされたものでも、機械に代替できるような作業は含まれているだろう。すると、職業単位で代替されそう/されなさそうと考えるのもいいが、職業区分内で部分的に機械化がされるかもしれないという観点から考えることもできる。
 次に、これまでも職業は新たな技術によって代替されてきた。その当たり前のことを念頭に置く必要がある。そしてその時に起こったのは、新たな技術に合わせて新たな職業が生まれてくるということである。AIの場合はこれまで以上に機械化の速度が早いということも考えられるが、単純に数値だけを見て悲観的になるのは不適切だと思われる。

4.最後に;「AI vs 人間?」

 AIが仕事に影響を与えるのは間違いないであろうと思われるが、しかし、「AI vs 人間」というフレーミングは間違っていると考えている。AIには汎用AIと特化型AIと呼ばれるものがあるが、現状の技術は特化型のものに過ぎず、人間の与えたアルゴリズムの制限ないの最適化装置とみなすのが適切であろう。そうすると、AIにどういう分析を出力させるか、あるいはその結果をもとに人間がいかに判断するかということがしばらくの要点になる。そういった状況においては、結局「丸腰の人間 vs AIで武装した人間」というフレームで今後の世界を考えていくのが適切であると考えている。

音楽教室における著作権料徴収問題

時事問題

 友人に音楽関係者が多いということがあって、最近話題になっているJASRAC著作権料徴収問題に関心を持っている。Twitterのタイムラインではあれこれ発言をしているひとがいたりとか、FBでもいくつか関連するポストを見かけたるりするけれども、どうも地に足の着いた議論が弱いような印象が強い。ただ、そんなことを言っていられるのも、自分が部外者だと思っているからかもしれないし、JASRACの現実的な実務的問題性について知らないからかもしれない。だから、以下はそんな立場の人間からの見方だと思って読んでもらえればいいと思う。

 各種の議論に目を通してきたなかで、個人的にわりと落ち着いた議論がなされていると感じられるのが、以下の四つである。
JASRACの外部理事を務める東大・玉井克哉教授(知的財産法)による大手音楽教室から著作権料徴収についてのQ&A - Togetterまとめ
 この一つ目については、いくつか論理的に疑問を抱かざるを得ないところも散見されるけれども、JASRACの組織のあり方を内部から主張するものとして、しっかり把握しておく必要があるものだと思う。

JASRAC vs 音楽教室:法廷で争った場合の論点を考える(栗原潔) - 個人 - Yahoo!ニュース
音楽教室とJASRAC: benli
還元の要否に関する原則と例外: benli
 この二~四つ目については、JASRACが音楽教室の指導において著作権を徴収することが妥当であるかについて、法的に吟味しているいい文章であると思う。

望ましいと思う議論のプロセス

 それでは、どのようにこの問題を見ていくのがいいかと考えると、まず現行法における理論的妥当性を吟味して、法的に妥当でなければ話はそこで終わりだし、妥当であれば実務的な妥当性を吟味して、実務的に問題があるならば方法を再検討して、理論的にも実務的にも妥当であるけれども、文化保護などの側面で問題があるならば、現行制度の変革を検討するというプロセスで進めればいいのだと思う。こんなことを言うのも、理論的妥当性及び実務的妥当性を考慮せずに、ただ反射的に反対を叫ぶのは、時間の無駄であるし長期的に見て音楽文化の保護にはつながらないと考えるからである。

現行法における理論的妥当性 現行法における実務的妥当性 文化保護問題 対策
× 徴収不可
× 方法の再検討
× 文化保護のための対策の検討
問題なし

×→妥当性なし、問題あり

(1)現行法における理論的妥当性

 この観点から吟味されるべきなのは、著作権法上の規定から、音楽教室から指導における著作権行使に対して著作権料を徴収することが理論的に妥当かどうかである。例えば、音楽教室が非営利活動に当たるのか、指導において著作権を行使しているのか、などである。
 前者については、確かに財団法人等の非営利組織は検討が必要なものの、株式会社のものについては擁護はできないだろう。後者については、まず楽譜における著作権(これは複製権の範疇である)に演奏行為が含まれないのは当然だろう。音楽教室での演奏を著作権法上の「聴衆」への演奏と規定できるかは難しい点である。教室では演奏行為に対してではなく指導に対して営利活動を行っていると言われたとしても、その指導の中身に演奏行為が含まれている以上、演奏行為に対して営利活動を行っているとみなすのが妥当であるように思う。ただ、断片的な演奏を演奏をみなせるのか、あるいは「引用」行為とみなすことはできないかなどは検討が必要である。
 法的に著作権の行使が認定できないのであれば、そもそも問題は起こり得ないのであって、まずは理論的な吟味が必要である。

(2)現行法における実務的妥当性

 理論的には妥当であるとしたら、次にそれが実務的に妥当であるのかという点が考慮されるべきであろう。これは、例えば2.5%の定率徴収が妥当であるのか、徴収をしたものの還元が適切に行われているのかどうか、組織活動に対するコストが適切な水準に留まっているかどうか、などである。色々と悪い噂は聞くわけではあるが、JASRACは零細な、個々レベル権利の行使が困難な権利者が組織化することで権利の行使を担保していることはしっかりと認識されるべきであって、法的に妥当な行為を行っている限りでは倫理的に批判する(例えば「音楽教室から著作権を徴収したら音楽文化を破滅させる」という主張)のは筋違いであるように思う。これは(3)で述べる。

(3)制度変革の検討

 理論的に妥当であり、かつ実務的も妥当であるけれども、それが文化的に問題をきたすというならば、制度変革を検討すればよい。例えば、フェアユースを規定するなどである。この時、部分最適ではなく全体最適を考えることが重要であるように思う。音楽教室から著作権料を徴収することが音楽文化を衰退させると思われるとしても、もしかしたら著作権料の支払いをしないことで音楽教室はその分を自分の利益に転嫁しているのかもしれないし、あるいはそもそも音楽教室から著作権料を徴収することによって音楽文化が衰退するとしたら、それは非営利組織における音楽文化活動が貧弱すぎるのが理由なのかもしれない。
 最近は音楽でも、活字でも、ゲームでも、あらゆるコンテンツで著作権が問題になっている。同人誌文化を見る限りでは、ある意味では著作権の行使が曖昧であるからこそ文化が活性化されるという側面もあるかもしれないが、まともに創作活動を行っているひとにその対価が行き渡らないのは由々しき事態である。音楽文化は大切だと思っているからこそ、全体の制度、環境としてどうすれば全体最適になるのかという観点から議論が深められてほしいと考えている。

見出しのカスタマイズ

はてブロ

このはてなブログ、Handwritingというテーマを利用しているのだけれど、デフォルトでh1-4まですべて同じ表示(しかも謎のリボンが冒頭につく)という仕様になっていて、階層が不明でイライラするので見出しをカスタマイズしてみた。 正直あまり気に入っていないものの、マシにはなったのでひとまず良しとしておこう。

なお、この編集はデザイン→カスタマイズ→CSSでできる。

見出し1

.entry-content h1{
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}

見出し2

.entry-content h2{
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margin: 40px 0 10px 0; / 上下の余白 /
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}

見出し3

.entry-content h3{
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background:#ffffff; / 背景の色 /
}

見出し4

.entry-content h4{
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margin: 0px 0 10px 0; / 上下の余白 /
padding:10px 10px 1px 10px; / テキストとボーダーの間の余白 /
background:#ffffff; / 背景の色 /
text-decoration:underline; / 下線 /
}

社会問題における「教育万能論」批判

社会問題と教育

はじめに

 社会問題について複数人で議論をするとき、解決策として「教育で取り組めばいい」という主張がはびこることが多い。確かに、人々にマクロにアプローチする上では、教育が高い影響可能性を持っているという事自体は同意できるものの、しかしそれほど楽観的に見られるわけではないという直感があった。もちろん、そこまで考慮した上で発言をしている人もいるとは思っているけれど、背後に抱いていた違和感を整理してみた。
(※なあ、ほぼ昔書いた文章を引っ張ってきただけなので、文体が変な気がしますがご了承ください笑)

背景にある「欠如モデル」

 科学コミュニケーションの分野で提示されているコミュニケーションモデルに、「欠如モデル」というものがある。これは、知識の欠如によって合理的な行動が取れないとされる対象に対して、知識を教えこむことで問題を解決するという視点である(Ex. 知識の欠けた素人では科学的判断ができないために、専門家は科学的知識を教えこむ必要がある;Cf. 藤垣裕子・廣野喜幸編著『科学コミュニケーション論』東京大学出版会、2008)。上辺だけの教育論議に対しても、この科学コミュニケーションの例と同様の傾向が見受けられる印象がする。

教育方法の問題

 教育理念を決めたとしても、それを実際にどう教えていくかまで提示することは難しい。確かに、教育関係者は特定の教育理念を達成するために不断に努力をしていると思うのだけれど、それを実現できるかというと多少の疑問を抱く。それは「ゆとり」論議においてそうだし、そんなに上手くいくなら大学教育によって大学生はみんな「コミュニケーション力」がついているだろう。

教育システムの問題

 方法の問題に加えて、ある教育理念を実現するような教育方法が開発されたとしても、それを実行する教員もそれを受ける生徒も多様であるという現実がある(このへんの意見は偏っているかもしれない、一方向の観点だし)。教員の熱意の方向も、性格も、スキルも、教育観も異なるなかで、かつ多様な生徒の状況に合わせて教育を行っていかなければならない状況で、どれだけ効果的な成果を得られるのだろうか。

生徒の問題

 上の問題に付随するけれど、生徒の側が同質的な価値観に染まるというのはありえない。どのような実践であっても、価値観であっても、そこから逸脱するベクトルを持った人間は存在する。そもそも、みんな同じになってしまったら、逆に不健全ではないだろうか。「共生なんて必要ない」という考えを持ちそれを主張する人がいるからこそ、共生の重要性が認識されていくということはあながち間違いではないのかもしれない。

理想と生活の論理の相克

 もし教育の成果として望ましいとされる倫理規範を内面化したとしても、生活の論理によってそれが実行されないということもある。生きていかなきゃだとか、家族を養うことを考えると、そうせざるを得ないということが多い。

さいごに

 上にいくつか「教育万能論」の限界を指摘してきた。とはいえ、教育には何も出来ないと言いたいわけではなくて、上記のことを考慮した上でも教育は非常に重要な要因であり、上に挙げた限界をきちんと認識した状態で教育に関わる人が努力してくれることは、この上ない価値があると思っている。

おまけ

 「コミュニティ万能論」も同じように見れるかもしれない。「コミュニティ」を抽象表現で捉えないで、コミュニティの崩壊が叫ばれる今だからこそ、再生というよりは再構成が大事なのかもしれない。地域で一括りにされる一つのコミュニティなのではなくて、利益集団、血縁集団、地域サークルなど重層的なコミュニティで捉える のが現実的なのではないだろうか。個人的に、この辺りで興味深いと思うのはNPO法人豊島子どもwakuwakuネットワーク練馬ママ漫画ルーム「よんこま」のような動きである。

教育と経済をめぐるあれこれ(170101 ver.1)

教育と経済

1.はじめに

 わたしはこれまで統計について基礎的な勉強をしたり、教育経済学の論文を読んだりしてはきたものの、実際に研究として活用したことはない。とはいえ、教育を経済の観点から見ることは非常に重要だという考えは常に頭の片隅に置いてきた。ただし、教育と経済の関係は非常にデリケートで、解釈に難しいものが多くあるという印象も抱いてきた。今回は、これまで考えてきたことについて、自分が考えていることを整理しておこうというものである。なお、以下では高等教育が念頭にあるが、概ね教育全般に適用できる議論であろう。

1.1.これまでの議論への違和感

 教育と経済について語るとき、「教育への投資を増やすべき」/「教育に投資する必要などない」という主張がアプリオリにあって、それを補強するための手段として統計的データが使われることが多いという印象を抱いている。それは、日本において教育の経済的研究が悲しいほど蓄積されていないということや、教育が個別的な経験をもとに一般化して語られやすいということがあるように思われるが、それに加えてデータやその分析の結果をいかに解釈するかが非常に難しいという点にも由来すると考えている。高等教育への教育投資を増やしたいものにとっては、データに基づいた主張は、学問の親和性が高く経験的に大学の存在を好意的に評価したいもののポジショントークである可能性がある。よくある「諸外国と比べて」という言葉についても、確かにそれはなんとなく説得的のように聞こえるかもしれないが、少ないということは増やすべきということを含意しない。むしろ諸外国との比較を取り出して、それだけをもとに同じ水準にすべきという言説は、単なる思考停止とも感じられるのである。
 そこで、今回は自分が「学問の親和性が高く経験的に大学の存在を好意的に評価したいもののポジショントーク」となる可能性に注意しつつ、できるだけフラットに、先入観を排除した形で教育と経済の関係を考えるための枠組みについて考えてみることにする。

1.2.功利と権利

 教育に対する投資を正当化する論理には、功利の側面と権利の側面があると考えている。前者は、教育を受けるとそれだけ収益が上がるということだ。この点については下で詳述するが、教育経済学で教育投資について考えるときは、主にこの側面から分析がなされる。後者は、人間(国民)には、教育を受ける権利があるという考え方だ。教育を受けたいから、受けることが保証される。個人的には、高等教育を受けることが多くのひとにとって当たり前になってきた今の社会では、もう少しこの考え方が普及してもいいのではないかと考えている。この点については強調しておきたいが、しかしそれだけでは教育にかかるコストを無限に肥大化させ、現実的なものではなくなってしまう。そこで、権利としての教育を実現するための功利としての教育の側面を検討する必要がある。すなわち、権利としての教育を保証するために投資をしなければならないのはどこなのか、あるいはどのような投資をすれば効率的に教育の効果が達成されるのか、といった点である。功利と権利という両方の側面が補完的に検討されることで、現実的に可能な限りの理想的な教育を考えられるのではないだろうか。

2.教育と経済を見るときの留保点

 さて、具体的な話に入る前に、教育と経済を見るときに重要となる二つの留保点について取り上げておこう。

2.1.教育と成果

 「教育の成果は数字では測れない」と言われることは多くあるように思う。これは確かにそういう側面もあるものの、測れるものと測れないものを切り分け、それらを考慮に入れつつ個別の研究の成果を見極めていくのがより必要な姿勢だと考えている。例えば、経済的なもの/非経済的なもの、短期的なもの/中長期的なもの、の二軸で整理するだけでも、かなり整理されるように思う。また、例えば大学での教育成果を考えるのならば、大学教育でできること/できないこと、非大学教育でできること/できないこと、という二軸を設定して、「大学でできて非大学でできないこと」あるいは「大学と非大学でともにできるが、大学の方が効率性が高いもの」の二つに注目することは大切なことであるだろう。

2.2.計量分析と多様性

 計量分析は、全体の傾向性をあぶり出すという点では有用であるが、その分析にあたって捨象されるものが何であるのかはきちんと念頭においておく必要がある。日本の高等教育を考える上では、専門学校(専修学校専門課程)をどう扱うかは吟味が必要な点であるし(専門学校は高等教育政策全体でも「残余」として扱われてきたきらいがある)、大学としても、多様な大学を「大卒」とくくるのが妥当なのかという点は難しい点である。統計が集団として平均的な傾向を示すものである以上、集団の上位と下位では傾向が成り立たないことがある。例えば、大学進学の収益率が平均的にプラスであっても、BF大学に進学することは収益率がマイナスになるかもしれない。こういう場合は、当初の集団からより細分化することで精度の高い分析を行うことができるが、まずどういう軸によって集団を分割するかは熟慮が必要であるし、またそれによって結果が複雑なものになるデメリットはある。また、集団が大きすぎると、あることが傾向として推測されても、その背後にある論理が異なったものである場合がある。
 計量的な分析が有意義な知見をもたらしうるというのは事実だと思うが、それはきちんとした研究デザインができるならばという留保付きであるだろうし、それに加えて、全体集団/部分集団の計量分析とそれに対応する質的研究とが相互補完するようになることも不可欠であるだろう。「使えそうなデータがあって、それを統計で分析してみて、なんとなく論理的に考えてみる」では、決してまともな知見が得られるはずがなく、むしろ歪んだ現実を発見するだけである。

3.教育と経済についての分析的検討

 ここからは、これまでの教育の効果をめぐる研究について、どのような枠組みで分析されてきたかを整理したい。なお現状での考えに過ぎないので、今後より精緻に検討していきたいと考えている。

3.1.静的モデル

 「静的」のカテゴライズは、これ自体として意味があるというよりは、3.2.動的モデルで批判するために設けたものである。よって、そちらを見てほしい。

3.1.1.経済的便益

 許育の便益には、経済的便益と非経済的便益があると考えられる。論文などでの分析では、計量的な把握がしやすいというのもあって、経済的便益をもとにして分析がなされることが多い。

3.1.1.1.個人的便益

 個人的便益を考えるとき、代表的なのは生涯所得の差である。「高校卒業後に高卒で就職した際の生涯賃金」<「大卒で就職した際の生涯賃金-(大学進学の費用+大学進学の機会費用)」となるとき、大学に進学することの便益がプラスであると考える。この分析は王道のものであるが、前述した平均と個別の考慮が必要であると思われる。
 ただし、個人的便益を精緻に認識することは非常に難しい。というのも、生涯賃金が上昇したとしても、それが大学教育による能力向上の効果なのか(人的資本理論の見方)、単なるシグナリングに過ぎないのか(シグナリング効果の見方)がわからないからである。すなわち、大学教育によって何らかの能力が獲得され、それが生産性を向上させることによって生涯賃金が増えるのか、単に(特定の)大学に入学したということがそのひとは一定水準の能力が高いというシグナルになり、(極端に言えば大学での能力向上がゼロだったとしても)そもそもの高い能力によって生産性が高いために生涯賃金が増えるのかの判別をつけることができない。
 また、能力向上が起こったとしても、それの要因が何なのかによって政策的な介入の方法も変わってくる。教育の効果なのか、環境の影響なのか、社会関係資本の寄与なのか、遺伝によるものなのか、はたまた非認知的能力が要因なのか。教育段階によってもこれらの要因の寄与の程度は変わってくるだろう。
 そして、労働をめぐる状況は供給のみによって決まるわけではない。すなわち、労働者を受け入れる側がどれだけ需要をしていたのかにも依存する。数年単位ではあまり変化はないかもしれないが、数十年単位ではそもそも評価されるものが変化し、「能力」の中身が変容していくこともありうる。
 以上のように、生涯所得の差が現実として生じるとしても、それが本当に大学での教育の効果であるのかを見極めるのは非常に難しい。この点はきちんと踏まえておく必要がある。

3.1.1.2.社会的直接便益

 教育の経済分析に抜けているのが、この「社会的直接便益」と、後者の「社会的間接便益」の視点である。この点については、矢野眞和先生がしばしば指摘している。単純に考えると、生涯賃金が増えるのならば、その分だけ納税額も増え、それは社会的便益となる。そうすると、「大学進学によって個人に利益が出るのならば、それは個人で負担すべき」というのは不適切な認識であるということになる。むしろ、教育投資が過小であれば個人的便益の一部を税金として徴収することで、社会としては個人から収奪を行うということにもなりうるのである。
 現実としてどうなっているかはわからないが、少なくとも高等教育への投資効果は、個人的便益に限られるものではないかもしれないという考えは一般的に広がっていくべきだと思われる。

3.1.1.3.社会的間接便益

 これはより計量的把握が難しいため、基本的に分析で考慮されることはないものである。例えば、治安の向上、大卒者が増えることで特定のスキルを広範囲に活用できるようになるネットワーク効果、留学等で海外との交流者が増えることによる外交関係や企業活動への影響などである。これらを実証的な研究で緻密に証明できるとはあまり思わないが、無視してはいけない点であると思う。

3.1.2.非経済的便益

 これは社会的間接便益と重ねて不明瞭なものであるが、例えば民主主義の定着があるかもしれない。民主主義が定着することは、国家の安定性をもたらし、国民に便益をもたらす。非常に論理が怪しいが(そもそも大学の教育の効果によって民主主義は定着するのか)、理論的に大学がもたらす非経済的便益を考えることは有益であろう。
 なお、アメリカでの数々の調査が示すように、おそらく大学の教員にはリベラルな思想の持ち主が有意に多いと思われる。そうすると、大学がリベラルな思想の人間を再生産する牙城ともなりうるという意味で、特定の(リベラルの)利益に与する場と見られても致し方ないとも思われる。

3.2.動的モデル

 動的モデルについてはまだあまり深く考察を勧められてないが、考える発端をもたらしたのは「大学進学は生涯賃金の増加とそれに伴う社会的便益の増加をもたらすから、大学進学に政策的に投資すべきである」という主張に対する違和感であった。確かに、平均的に見てみればそうかもしれない。しかし、それは分析時点の静的な社会構造に依存するものに過ぎないのではないか。すなわち、大学進学に政策的に投資し、大学進学比率が大幅に変わったときに、賃金上昇はどうなるだろうか。単純に考えれば、大卒の供給が増えれば、相対的に「下層」に位置する大卒者の賃金は高卒とそれほど変わらないかもしれない。仮に大卒者と高卒者が「補完材」的に働くとすれば、大卒者が過剰供給になることで生産力はむしろ低下するかもしれない。
 これらはあくまで想像にしか過ぎないが、ある特定の知見から導き出される主張に沿って何らかの対策を施したとき、基盤となった知見の前提自体を変容させ、期待した効果が得られないかもしれないということは考える価値のあることであるだろう。

初投稿。

その他

今度こそブログを書くんだと思いつつ、またもやブログを作成してから1ヶ月が経ちましたふたばです(平常運転


ふたば
高等教育と学術政策に関心がある大学4年生です。
ゆるゆると考えたことや、調べたことなどについて書いていこうと思います。
かつての大学受験ブログは毎日マメに更新していましたが、その後は(4回くらい)うまくいった試しがありません。
1ヶ月に1回くらいはゆるゆると書くようにしていきたいと思っています。よろしくお願いします。

*追記: 早速Markdown記法に慣れないで戸惑うなどw(改行ができなかった