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ふたばの日記

高等教育や学術政策に関心がある大学生のブログです。考えたことのメモなど。

教育と経済をめぐるあれこれ(170101 ver.1)

教育と経済

1.はじめに

 わたしはこれまで統計について基礎的な勉強をしたり、教育経済学の論文を読んだりしてはきたものの、実際に研究として活用したことはない。とはいえ、教育を経済の観点から見ることは非常に重要だという考えは常に頭の片隅に置いてきた。ただし、教育と経済の関係は非常にデリケートで、解釈に難しいものが多くあるという印象も抱いてきた。今回は、これまで考えてきたことについて、自分が考えていることを整理しておこうというものである。なお、以下では高等教育が念頭にあるが、概ね教育全般に適用できる議論であろう。

1.1.これまでの議論への違和感

 教育と経済について語るとき、「教育への投資を増やすべき」/「教育に投資する必要などない」という主張がアプリオリにあって、それを補強するための手段として統計的データが使われることが多いという印象を抱いている。それは、日本において教育の経済的研究が悲しいほど蓄積されていないということや、教育が個別的な経験をもとに一般化して語られやすいということがあるように思われるが、それに加えてデータやその分析の結果をいかに解釈するかが非常に難しいという点にも由来すると考えている。高等教育への教育投資を増やしたいものにとっては、データに基づいた主張は、学問の親和性が高く経験的に大学の存在を好意的に評価したいもののポジショントークである可能性がある。よくある「諸外国と比べて」という言葉についても、確かにそれはなんとなく説得的のように聞こえるかもしれないが、少ないということは増やすべきということを含意しない。むしろ諸外国との比較を取り出して、それだけをもとに同じ水準にすべきという言説は、単なる思考停止とも感じられるのである。
 そこで、今回は自分が「学問の親和性が高く経験的に大学の存在を好意的に評価したいもののポジショントーク」となる可能性に注意しつつ、できるだけフラットに、先入観を排除した形で教育と経済の関係を考えるための枠組みについて考えてみることにする。

1.2.功利と権利

 教育に対する投資を正当化する論理には、功利の側面と権利の側面があると考えている。前者は、教育を受けるとそれだけ収益が上がるということだ。この点については下で詳述するが、教育経済学で教育投資について考えるときは、主にこの側面から分析がなされる。後者は、人間(国民)には、教育を受ける権利があるという考え方だ。教育を受けたいから、受けることが保証される。個人的には、高等教育を受けることが多くのひとにとって当たり前になってきた今の社会では、もう少しこの考え方が普及してもいいのではないかと考えている。この点については強調しておきたいが、しかしそれだけでは教育にかかるコストを無限に肥大化させ、現実的なものではなくなってしまう。そこで、権利としての教育を実現するための功利としての教育の側面を検討する必要がある。すなわち、権利としての教育を保証するために投資をしなければならないのはどこなのか、あるいはどのような投資をすれば効率的に教育の効果が達成されるのか、といった点である。功利と権利という両方の側面が補完的に検討されることで、現実的に可能な限りの理想的な教育を考えられるのではないだろうか。

2.教育と経済を見るときの留保点

 さて、具体的な話に入る前に、教育と経済を見るときに重要となる二つの留保点について取り上げておこう。

2.1.教育と成果

 「教育の成果は数字では測れない」と言われることは多くあるように思う。これは確かにそういう側面もあるものの、測れるものと測れないものを切り分け、それらを考慮に入れつつ個別の研究の成果を見極めていくのがより必要な姿勢だと考えている。例えば、経済的なもの/非経済的なもの、短期的なもの/中長期的なもの、の二軸で整理するだけでも、かなり整理されるように思う。また、例えば大学での教育成果を考えるのならば、大学教育でできること/できないこと、非大学教育でできること/できないこと、という二軸を設定して、「大学でできて非大学でできないこと」あるいは「大学と非大学でともにできるが、大学の方が効率性が高いもの」の二つに注目することは大切なことであるだろう。

2.2.計量分析と多様性

 計量分析は、全体の傾向性をあぶり出すという点では有用であるが、その分析にあたって捨象されるものが何であるのかはきちんと念頭においておく必要がある。日本の高等教育を考える上では、専門学校(専修学校専門課程)をどう扱うかは吟味が必要な点であるし(専門学校は高等教育政策全体でも「残余」として扱われてきたきらいがある)、大学としても、多様な大学を「大卒」とくくるのが妥当なのかという点は難しい点である。統計が集団として平均的な傾向を示すものである以上、集団の上位と下位では傾向が成り立たないことがある。例えば、大学進学の収益率が平均的にプラスであっても、BF大学に進学することは収益率がマイナスになるかもしれない。こういう場合は、当初の集団からより細分化することで精度の高い分析を行うことができるが、まずどういう軸によって集団を分割するかは熟慮が必要であるし、またそれによって結果が複雑なものになるデメリットはある。また、集団が大きすぎると、あることが傾向として推測されても、その背後にある論理が異なったものである場合がある。
 計量的な分析が有意義な知見をもたらしうるというのは事実だと思うが、それはきちんとした研究デザインができるならばという留保付きであるだろうし、それに加えて、全体集団/部分集団の計量分析とそれに対応する質的研究とが相互補完するようになることも不可欠であるだろう。「使えそうなデータがあって、それを統計で分析してみて、なんとなく論理的に考えてみる」では、決してまともな知見が得られるはずがなく、むしろ歪んだ現実を発見するだけである。

3.教育と経済についての分析的検討

 ここからは、これまでの教育の効果をめぐる研究について、どのような枠組みで分析されてきたかを整理したい。なお現状での考えに過ぎないので、今後より精緻に検討していきたいと考えている。

3.1.静的モデル

 「静的」のカテゴライズは、これ自体として意味があるというよりは、3.2.動的モデルで批判するために設けたものである。よって、そちらを見てほしい。

3.1.1.経済的便益

 許育の便益には、経済的便益と非経済的便益があると考えられる。論文などでの分析では、計量的な把握がしやすいというのもあって、経済的便益をもとにして分析がなされることが多い。

3.1.1.1.個人的便益

 個人的便益を考えるとき、代表的なのは生涯所得の差である。「高校卒業後に高卒で就職した際の生涯賃金」<「大卒で就職した際の生涯賃金-(大学進学の費用+大学進学の機会費用)」となるとき、大学に進学することの便益がプラスであると考える。この分析は王道のものであるが、前述した平均と個別の考慮が必要であると思われる。
 ただし、個人的便益を精緻に認識することは非常に難しい。というのも、生涯賃金が上昇したとしても、それが大学教育による能力向上の効果なのか(人的資本理論の見方)、単なるシグナリングに過ぎないのか(シグナリング効果の見方)がわからないからである。すなわち、大学教育によって何らかの能力が獲得され、それが生産性を向上させることによって生涯賃金が増えるのか、単に(特定の)大学に入学したということがそのひとは一定水準の能力が高いというシグナルになり、(極端に言えば大学での能力向上がゼロだったとしても)そもそもの高い能力によって生産性が高いために生涯賃金が増えるのかの判別をつけることができない。
 また、能力向上が起こったとしても、それの要因が何なのかによって政策的な介入の方法も変わってくる。教育の効果なのか、環境の影響なのか、社会関係資本の寄与なのか、遺伝によるものなのか、はたまた非認知的能力が要因なのか。教育段階によってもこれらの要因の寄与の程度は変わってくるだろう。
 そして、労働をめぐる状況は供給のみによって決まるわけではない。すなわち、労働者を受け入れる側がどれだけ需要をしていたのかにも依存する。数年単位ではあまり変化はないかもしれないが、数十年単位ではそもそも評価されるものが変化し、「能力」の中身が変容していくこともありうる。
 以上のように、生涯所得の差が現実として生じるとしても、それが本当に大学での教育の効果であるのかを見極めるのは非常に難しい。この点はきちんと踏まえておく必要がある。

3.1.1.2.社会的直接便益

 教育の経済分析に抜けているのが、この「社会的直接便益」と、後者の「社会的間接便益」の視点である。この点については、矢野眞和先生がしばしば指摘している。単純に考えると、生涯賃金が増えるのならば、その分だけ納税額も増え、それは社会的便益となる。そうすると、「大学進学によって個人に利益が出るのならば、それは個人で負担すべき」というのは不適切な認識であるということになる。むしろ、教育投資が過小であれば個人的便益の一部を税金として徴収することで、社会としては個人から収奪を行うということにもなりうるのである。
 現実としてどうなっているかはわからないが、少なくとも高等教育への投資効果は、個人的便益に限られるものではないかもしれないという考えは一般的に広がっていくべきだと思われる。

3.1.1.3.社会的間接便益

 これはより計量的把握が難しいため、基本的に分析で考慮されることはないものである。例えば、治安の向上、大卒者が増えることで特定のスキルを広範囲に活用できるようになるネットワーク効果、留学等で海外との交流者が増えることによる外交関係や企業活動への影響などである。これらを実証的な研究で緻密に証明できるとはあまり思わないが、無視してはいけない点であると思う。

3.1.2.非経済的便益

 これは社会的間接便益と重ねて不明瞭なものであるが、例えば民主主義の定着があるかもしれない。民主主義が定着することは、国家の安定性をもたらし、国民に便益をもたらす。非常に論理が怪しいが(そもそも大学の教育の効果によって民主主義は定着するのか)、理論的に大学がもたらす非経済的便益を考えることは有益であろう。
 なお、アメリカでの数々の調査が示すように、おそらく大学の教員にはリベラルな思想の持ち主が有意に多いと思われる。そうすると、大学がリベラルな思想の人間を再生産する牙城ともなりうるという意味で、特定の(リベラルの)利益に与する場と見られても致し方ないとも思われる。

3.2.動的モデル

 動的モデルについてはまだあまり深く考察を勧められてないが、考える発端をもたらしたのは「大学進学は生涯賃金の増加とそれに伴う社会的便益の増加をもたらすから、大学進学に政策的に投資すべきである」という主張に対する違和感であった。確かに、平均的に見てみればそうかもしれない。しかし、それは分析時点の静的な社会構造に依存するものに過ぎないのではないか。すなわち、大学進学に政策的に投資し、大学進学比率が大幅に変わったときに、賃金上昇はどうなるだろうか。単純に考えれば、大卒の供給が増えれば、相対的に「下層」に位置する大卒者の賃金は高卒とそれほど変わらないかもしれない。仮に大卒者と高卒者が「補完材」的に働くとすれば、大卒者が過剰供給になることで生産力はむしろ低下するかもしれない。
 これらはあくまで想像にしか過ぎないが、ある特定の知見から導き出される主張に沿って何らかの対策を施したとき、基盤となった知見の前提自体を変容させ、期待した効果が得られないかもしれないということは考える価値のあることであるだろう。