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ふたばの日記

高等教育や学術政策に関心がある大学生のブログです。考えたことのメモなど。

社会問題における「教育万能論」批判

社会問題と教育

はじめに

 社会問題について複数人で議論をするとき、解決策として「教育で取り組めばいい」という主張がはびこることが多い。確かに、人々にマクロにアプローチする上では、教育が高い影響可能性を持っているという事自体は同意できるものの、しかしそれほど楽観的に見られるわけではないという直感があった。もちろん、そこまで考慮した上で発言をしている人もいるとは思っているけれど、背後に抱いていた違和感を整理してみた。
(※なあ、ほぼ昔書いた文章を引っ張ってきただけなので、文体が変な気がしますがご了承ください笑)

背景にある「欠如モデル」

 科学コミュニケーションの分野で提示されているコミュニケーションモデルに、「欠如モデル」というものがある。これは、知識の欠如によって合理的な行動が取れないとされる対象に対して、知識を教えこむことで問題を解決するという視点である(Ex. 知識の欠けた素人では科学的判断ができないために、専門家は科学的知識を教えこむ必要がある;Cf. 藤垣裕子・廣野喜幸編著『科学コミュニケーション論』東京大学出版会、2008)。上辺だけの教育論議に対しても、この科学コミュニケーションの例と同様の傾向が見受けられる印象がする。

教育方法の問題

 教育理念を決めたとしても、それを実際にどう教えていくかまで提示することは難しい。確かに、教育関係者は特定の教育理念を達成するために不断に努力をしていると思うのだけれど、それを実現できるかというと多少の疑問を抱く。それは「ゆとり」論議においてそうだし、そんなに上手くいくなら大学教育によって大学生はみんな「コミュニケーション力」がついているだろう。

教育システムの問題

 方法の問題に加えて、ある教育理念を実現するような教育方法が開発されたとしても、それを実行する教員もそれを受ける生徒も多様であるという現実がある(このへんの意見は偏っているかもしれない、一方向の観点だし)。教員の熱意の方向も、性格も、スキルも、教育観も異なるなかで、かつ多様な生徒の状況に合わせて教育を行っていかなければならない状況で、どれだけ効果的な成果を得られるのだろうか。

生徒の問題

 上の問題に付随するけれど、生徒の側が同質的な価値観に染まるというのはありえない。どのような実践であっても、価値観であっても、そこから逸脱するベクトルを持った人間は存在する。そもそも、みんな同じになってしまったら、逆に不健全ではないだろうか。「共生なんて必要ない」という考えを持ちそれを主張する人がいるからこそ、共生の重要性が認識されていくということはあながち間違いではないのかもしれない。

理想と生活の論理の相克

 もし教育の成果として望ましいとされる倫理規範を内面化したとしても、生活の論理によってそれが実行されないということもある。生きていかなきゃだとか、家族を養うことを考えると、そうせざるを得ないということが多い。

さいごに

 上にいくつか「教育万能論」の限界を指摘してきた。とはいえ、教育には何も出来ないと言いたいわけではなくて、上記のことを考慮した上でも教育は非常に重要な要因であり、上に挙げた限界をきちんと認識した状態で教育に関わる人が努力してくれることは、この上ない価値があると思っている。

おまけ

 「コミュニティ万能論」も同じように見れるかもしれない。「コミュニティ」を抽象表現で捉えないで、コミュニティの崩壊が叫ばれる今だからこそ、再生というよりは再構成が大事なのかもしれない。地域で一括りにされる一つのコミュニティなのではなくて、利益集団、血縁集団、地域サークルなど重層的なコミュニティで捉える のが現実的なのではないだろうか。個人的に、この辺りで興味深いと思うのはNPO法人豊島子どもwakuwakuネットワーク練馬ママ漫画ルーム「よんこま」のような動きである。