ふたばの日記

高等教育や学術政策に関心がある大学生のブログです。考えたことのメモなど。

「河野太郎の大学の悩み聞きます@東京大学五月祭」に関する考察 その2

 先日書いた記事(「河野太郎の大学の悩み聞きます@東京大学五月祭」に関する考察)について、九州大学の大賀哲先生に、ブログのなかで取り上げていただいた(再び要望書について | 九州大学国際政治学教室)。記事を書いていただいてから時間が経ってしまい誠に申し訳ないのであるが、今更ながらその記事の内容について、簡単に返答しておくことにする。なお予め断っておくが、私は大学の教員でも職員でもないので、以下の記述に関しては不適切な認識もあるかもしれない。もしそのような不適切な認識があった場合、ぜひ指摘してほしい。また、以下の記述は各々で考えるための素材として活用してもらえると幸いである。

1.権限の問題

1.1.以前の記事における誤解

 この点についてまず言及しておきたいのは、以下のことである。すなわち、以前私が、

国立大学法人はあくまで国から独立した法人であり、政治家⇔行政(文部科学省)⇔国立大学というラインで上位から権力行使されるのは可能な限り抑制されるべきだと思うからである。(中略)本来ならば自主的に解決されるべき事象であり、政治家経由の介入が頻繁に行われたという事実を作ることが将来に悪く響かないことを願っている。

と述べたのに対して、大賀先生から、

共通指針は「競争的資金に関する関係府省連絡会申し合せ」であり、これは公的研究費制度として競争的資金の配分機関または配分機関を監督する官庁が文科省を含めた一府八省にまたがっているためである。 したがって、「政治家―行政(文部科学省)―各大学」の関係というよりも、文科省も当然そこに包摂されるが「政治―行政(一府八省)―配分機関―各大学」という構図があり、複数の関係府省にまたがった政治マターの課題であると認識している。

という指摘がなされた。この点に関しては、全面的に私の誤解である。理解が不十分であったことに関して、心からお詫びしたい。

1.2.基本的な姿勢

 次に、私の基本的な姿勢について述べたい。大賀先生による、

④仮に本要望が大学の自主性を脅かすとするならば、その大元の、すなわち国が共通指針を定めたり、配分機関において経費執行についての細則を定めることも大学の自主性を脅かすことになると言えてしまいそうであるが、しかし、そのような考えは少数派であろう。共通指針自体はなんら大学の自主性を損なうものではない(配分機関から配分された資金の使途を定めた文書に過ぎない)。にも拘わらず、共通指針の見直しを提起することが大学の自主性を脅かすというのは少し論理が飛躍してはいないだろうか。

という指摘に対しては、上記の誤解があろうとなかろうと、
・共通指針の見直しを要望することに対しては賛成である
・行政が硬直的な事象に対して政治家に要望を伝えるということ自体は、変革のための真っ当なプロセスである
と私は考えていることを述べたい。この背景には、以前の記事において、「権限の問題」という区分けが不適切であったこと、当該部分に関する記述が不十分であったこと、そしてそもそもその時点で私の考えが十分に整理されていなかったことがある。

1.3.私の考え

 そもそも前回の記事において「権限の問題」として取り上げたのは、川口/大賀両先生の要望単独のことではなく、Word罫線や神エクセル等の一連の流れのなかでのことであった。また、「共通指針の見直し」という事象ではなく、それを実現するためのプロセスを一連の他の事象と同一に見てのことであった。確かにWord罫線や神エクセル、間接経費についてはどれも問題だと思われるものの、そもそもの根源的な問題は、末端での問題が解決に向けてフィードバックされていく回路が余りにも欠如していることなのではないかと考えたのである。すなわち、それぞれの問題について、研究者と大学、学術振興会、文部科学省といった直接やり取りがなされる組織間での解決がなされるのが望ましいのではないだろうか。(この点、研究者の方はどう思われるだろうか、ご意見を伺いたい。そんなことは現実的ではないという意見もありそうな気もする。)

※なお、今回テーマになっている共通指針は省庁横断的なものであり、単なる研究者―文部科学省という関係ではないため、政治に頼ることは仕方がないと思う。上記の記述は冒頭の誤解を踏まえた上での考えであった。

 なぜ末端組織間での解決手段の欠如を問題視し、「政治家経由の介入が頻繁に行われ」ることを危惧するかというと、大学はある程度の自律性を持っていることが必要である(もちろん、外部の需要に応えずに好き勝手やっていいというわけではない)と考えており、また高等教育・学術の持つ複雑性を適切に認識した上でこうしたものに関わる政治家はそれほど多くないと考えているからである。特定の権威から距離を取った視点を持つことが重要であることは疑い得ず(とはいえ学術が権威になることも多々あるわけだが…)、そのためには一定の組織の独立性が必要である。そして、大学はその機能の複合性から、その在り方を適切に認識することは非常に難しい。(単なる)学長のリーダーシップ強化や東京23区の大学定員規制など、過度に単純化された議論ばかりなされる現状で、政治家に頼ることが常態化するとしたら、それは必ずしもいい結果につながらないのではないかと危惧しているのである。

 もちろん、これらは河野太郎氏という個人が適切な変革をもたらす可能性を否定することではない。河野太郎氏という一定の地位があり、大学に対して問題意識を強く持っている(ように見える)人物が、適切な問題把握の上、適切な変革に寄与する可能性はあるかもしれない。そしてまた、長期的にはきちんと高等教育・学術の持つ複雑性を一般に理解してもらうことが望ましいと思われる。

 なお、そんなことを言われてもと思われるかもしれないが、そもそも前回の記事も単に両先生に向けたものなのではなく、要望を起点にしてさらに広い問題を考えたものであったことを指摘しておきたい。

2.運営費交付金の減額

運営費交付金については、私は以前の記事で、

運営費交付金が減少し、基盤的な経費が不足しているからこそ、競争的資金に伴う間接経費を基盤的な運営経費として活用せざるを得ないという事情がある。

と述べた。これについて、大賀先生は、

①まず(a)間接経費をどのような趣旨の下に運用すべきかという規範的な議論と、(仮に(a)に何らかの方向性が与えられたとして)(b)間接経費をそのように運用することは財務上可能かという経験的・実体的な議論は論理的には区別可能であり、かつ(b)は(a)を否定する根拠とはならないのではないかというのが一点。

と述べた。この点については、まず、上記の私の記述は、指摘のように議論を区別した上で、否定する根拠として書いたのではなく、単なる前提の確認として書いたことを述べておきたい。

 しかしその上で、確かに論理的には(a)と(b)は別問題であるものの、実現のプロセスを考えてみると、当初はそう考えてはいなかったものの、(b)について(a)を否定する根拠として論じることも可能なのではないかと思われた。間接経費運用に財務上関わってくる運営費交付金の減額については、発表資料を見る限り、競争的教育資金の改革で捻出することを一つの案として考えていると思われる。その他にも方策はあるかもしれないが、少なくとも間接経費の運用の見直しと、基盤的経費の措置を両輪として要望を述べたのだと理解している。そのとき、この二つのことは論理的には分けて考えられるものの、現実的な変革可能性を考慮すると、片方のみが実現するということも当然考えられる。すなわち、間接経費運用の見直しのみが実現し、運営費交付金は(例えば)部局に付与されなくなるということも考えうるのではないだろうか。

3.最後に

 大賀先生が、

予想されていたことではあるが、この問題の背景には深刻なコミュニケーション不足があると思う。

と述べていたように、そもそも人によって現状の認識に差異が非常に大きくあるのだろうし、かつ認識が十分あったのだとしてもそれに対する対処の方向性に関して大きな意見の差異があるのだろうと思う。そうしたなかで、私の記述が少しでも参考になれば幸いである。