ふたばの日記

高等教育や学術政策に関心がある大学生のブログです。考えたことのメモなど。

学習資源と地方国立大学の重要性

 インターネットによって誰でも手軽に学べるようになったと言われることがよくある。確かに、単純なコストの面ではそれは事実かもしれないが、実際的な麺を考えて見ると未だにそれは実現し難いだろうし、そこで書籍は依然として学習の主要なメディアであり続けているのだと考えている。そういう意味での学習資源の観点と、書籍へのアクセスの観点からの地方国立大学の重要性について、現状で仮説として考えていることを書いておく。

1.物理的存在としての書籍の重要性

 インターネットの発展によって情報として書籍が代替されるようになる、あるいはAmazonの登場によって物理的に書籍が置かれる場所が重要性を失ってきていると考えられることがある。しかし、インターネットの情報にはある分野の初心者にとっては適切な情報を引き出すことは難しいし、Amazon等の通販の形式で書籍を購入するにも不十分な点があると思われる。

1.1.インターネットの情報の限界

 インターネットの情報は、誰もが安価にあらゆる情報にアクセスできるような幻想を抱かせる。しかし、現実的にはそれはある程度の知識を持ったものにしか困難なことになっている。検索サイトでキーワードを入れてみればわかるが、今では多くの記事がキュレーションサイトに「汚染」されている。確かに、そのなかには有用な情報が存在はするものの、PV稼ぎの場でしかなかったり、不明確な情報をひたすら集めてきただけであったり、情報としての信頼性がかなり怪しいものが非常に多くなっている。しかし、検索のトップ3までしかほとんど見られないというのは一般的な話である。高度な検索のスキルを持っていれば信頼性の高い情報にアクセスすることは可能であるが、キーワードや検索条件、情報ソースの信頼性判断など、あまり慣れていない人にはなかなかハードルが高い状態になっている。

 SNSでは、フォローとブロックを活用することによって、自分に親和性が高い情報を寄せ集めて、親和性が低い情報を隔離するように行動を進めていく。気づけばSNSは「ブロック化」した世界に成り果て、自分の認識を深めてくれるような情報ソースとしては機能しづらいようになっていく。

 膨大な情報があるインターネットでは、それをうまく使えればかなり有用な情報源となる。しかし、かなりの「ゴミ」が混在する山のなかから、断片化した情報を寄せ集めてまともな知見に至ることは極めて難しい。ともすればパーソナライズされた居心地の良い情報空間から、気持ちの良い情報の消費を行うだけになりかねない。

1.2.物理的なひとまとまりの情報としての書籍

 書籍が物理的に並んでいることには意義がある。それは、自然と周辺のトピックに触れることになるということと、情報がひとまとまりになっているということにある。すなわち、ネットで検索するとなると、(キーワードの入れ方にもよるが)かなり視野の狭い情報になりやすい。書籍は、物理的に書架に並べられるため、意識せずに関連する領域に目を配ることになりやすい。ある意味で、自然に「ノイズ」が入ることになる。そして、書籍は一冊の本という単位でまとめられるため、情報がある程度体系化されたものになりやすい。読みこなすことに困難が伴うとも指摘できるが、情報の断片化はある程度防ぐことができるし、目次を見渡すだけでも何となく大きな絵を見ることができるだろう。

 それに加えて、物理的存在としての書籍は容易に前の部分を見返すことができるし、後にまた読み返すということが行いやすい。デジタル情報でも可能ではあるが、デジタル情報をきちんと管理し切るのはそれはそれで難しいことであるように思う。

2.学習資源としての書籍の欠乏

 そのように、依然として書籍は重要な情報メディアであると考える一方で、そこへのアクセスはかなり難しいものになっているという印象がしている。

2.1.書店の品揃えの貧困

 かつてに比べて、書店の品揃えは貧困になったのではないだろうか。今の地方の書店を見ると、雑誌、コミック、文芸、実用書でほぼ全部を占めることが多いと感じられる。そして、書籍の売上が低迷するなか、書店が少なくなっていると言われる。このあたりは、むしろそれまで多く書籍が読まれ、多く書店があったということが特異なことであったと解釈することもできるかもしれないし、そもそも大学進学率が低かった時代に地方に書店がそれほどあったのかなど、きちんとデータを確認する必要があるとも感じられる。

 しかし、確実に言えるのは、ロードサイドのフランチャイズの大規模書店が多く立地するようになり、POSデータによって経済的な効率化がなされるようになると、売り場の多様性は消失する。ある意味で「適当」であったことによってあった「余白」が消失してしまったということは確実に言えるのではないだろうか。

2.2.公共図書館の蔵書の限界

 それでは、書籍の保存機関としての図書館がどうなのかというと、それほど明るい場所としては見ていない。というのも、公共図書館地方交付税交付金措置によって財政措置されるものであるが、その交付金を実際に図書館に当てるかは地方自治の範囲内に任されている。国家的な統制は利くものではない。しかし、地方自治のなかで公共図書館のあり方が政策課題に挙がることはそれほど多くないし、以前からの市民社会における図書館の位置づけの曖昧さがそれに拍車をかけているように感じる。そこで、多くの地域において、社会保障費が膨らんでいくなかで、公共図書館に十分な資料費が措置されているとは言い難いのではないだろうか。

3.国立大学/放送大学としての地方国立大学

 地方国立大学は、学習機会の均等の場としての意義を持っていることは疑いようのない事実である。そして、上記のような環境において学習の資源を提供する機能も持っている。それだけでなく、地方国立大学は多くが放送大学の学習センターを併設し、かつ図書館の一般開放を行っていることから、放送大学の学生に対する学習資源の提供も結果的に行っていることになっている。当然、放送大学の学生でなくとも、地方に住む人たちに対しても学習資源を提供している。

 もちろん、他の施設が存在するのであればそれは国立大学である必然性はないのであるが、現状においては、地方国立大学が国立大学として、あるいは放送大学に対して、そして一般の人々に対して学習資源を提供する重要な場として機能していることは注意しておくべきことであるように思う。