ふたばの日記

高等教育や学術政策に関心がある大学生のブログです。考えたことのメモなど。

「ラーニングコモンズ」の流行に感じること

 これからは「アクティブラーニング」の時代だと流行が広まっているなか、それを実現するための空間として、「ラーニングコモンズ」なるものが多くの大学で作られている。確かに、これまでの学習空間の代表である図書館は基本的に静寂空間であったから、集団で活動をしたりテクノロジーを活用する空間としてあまりいいものではなかったという点では同意できるものがある。しかし、あちらこちらの「ラーニングコモンズ」について見聞きするに、結局哲学のないただの模倣=流行に過ぎないのではないかと感じている。

1.理想的な学習者から演繹される空間

 「ラーニングコモンズ」には一抹の気持ち悪さを感じている。その源泉がどこにあるかというと、その空間は理想的な学習者から演繹されるものであり、現実の学習者を見る視点に欠けているのではないかと思われるからだ。多くの大学において、昨今の教育改革の文脈から「ラーニングコモンズ」が導入されている。その時に、そうした改革の目標となるような理想的な学習者を想像して、その理想的な学習者がいかに行動するかに即して最適な空間がデザインされる。その結果、非常にコンセプチュアルで、美しい空間が実現されるのであるが、それは現実の「アクティブではない」あるいは「やる気のない」ような学習者が活用しやすい空間ではないのではないだろうか。

 確かに、教育の転換には一定の意義があると思っているし、そのために現状とは異なる理想像を描いて演繹的に考えていくプロセス自体は重要なことだと考えている。しかし、本来ならば、そういう方向の視点に加えて、現実の学習者の現実的な行動やニーズを吸い上げていくことが同時に行われるべきであったのではないかと思われる。

2.きめ細やかなゾーニングと空間の自由度

 いくら転換だと言っても、従来ながらの静寂空間は重要性を失っていない。当然それは理解されていて、静寂空間とPC等が利用可能な空間と会話が可能な空間の三区分程度で大まかなゾーニングがなされている事例は多い。しかし、個人的にはそうした静寂空間でも、それなりの広さの空間なのか、個室なのか、机が広い/狭いのか、視界がどれだけ遮断されるのかなど個人個人に応じた細かなニーズが存在するだろうし、「ラーニングコモンズ」に該当する空間でも同様である。机が良いときがあるかもしれないし、靴を脱げる空間があるのもいいかもしれない。このように、きめ細やかなゾーニングを行うことがより学生の個別の活動/学習を促す効果があるのではないかと個人的には考えている。

 さらに加えて、「ラーニングコモンズ」というととりあえず可動机があり、可動椅子があり、ホワイトボードがあり、時々液晶ディスプレイがあり、電子黒板があり…となっている。ある種、こういうツールを置いておけばそこを「ラーニングコモンズ」と呼ぶことができるかのようである。個人的に考えているのは、こうしたツールに加えて、可動のパーティションや室内BGMも含めて、教職員の側が実験的に空間を変えることができること、それに何より、学生の側が自分たちの都合に合わせて空間を作っていくような空間の自由度が重要なのだということである。そのとき、自由に動かせるものを置いておくだけでいいのではなくて、実際にそういう行動を引き出すような「仕掛け」を組み込んでおくということが重要なのではないだろうか。

3.オープンな学びの理念とクローズドな空間管理

 最後に、これが一番気になっていることなのであるが、教育改革は「オープンな学び」を理念にしているはずなのに、実際にはクローズドな空間管理が行われることに大きな違和感を抱いている。一部の大学で、意識的なのかはわからないが、図書館外に「ラーニングコモンズ」が作られている事例がある。これは評価すべきことであると思う。あるいは、実質的に図書館が開放されており、図書館内に置いたとしても閉鎖空間となっていない場合がある。こうした例でもそれは良いことであると思う。問題なのは、原則的にその大学の学生のみに利用者を制限している図書館で、その館内に「ラーニングコモンズ」が設置されている場合である。

 確かに、管理上の問題から図書館を無制限に開放することは難しい。その点に関しては、当然理解できることである。しかし、新たな教育として思い描かれている「オープンな学び」では、集団で活動を行うにあたってそのメンバーは他大学の学生がいてもいいはずだし、地域の住民でいてもいいはずである。むしろ、そのような多様な人材が交流することは、新たな学びを促進するものとしても重要なはずである。しかし、現実的にはそのようにはいかない。

4.最後に

 流行に乗って「ラーニングコモンズ」を作ることに意義がないとは思わない。しかし、そこで行われる学びは「アクティブラーニング」の理想を実現することなく、結局は囲い込まれた枠のなかでの自由を演出する装置としてしか働くことがないのではないか。