ふたばの日記

高等教育や学術政策に関心がある大学生のブログです。考えたことのメモなど。

センター試験の日なので、大学入学試験のあり方に関して論点整理してみる。

 今日はセンター試験の日ですね。あちこちで大雪のようで大変そうですが、受験生の方も運営業務の方も頑張ってください。

 さて、先日大阪大学の入試に関して問題があったようで、その問題の経緯について指摘者のツイートをまとめた 大阪大学大学入試の物理の出題ミス発覚の背景(1年間) - Togetterや、そこから派生した大学教員に入試問題を作らせるべきではない - Togetterなどを読んでいた。そこから考えたことについて、自分の備忘録がてら論点整理をしておこうと思う。

1.基本的な考え方

 はじめに、様々な論点が錯綜している現在の大学入学試験問題を理解するために、参考になる3つの視点を提示しておく。

(1)制度の一部分の妥当性ではなく制度全体の妥当性に着目する
(2)目的合理性と経済的合理性のバランスを取る(※必ずしもトレードオフではないが、概してトレードオフ的)
(3)一般的に、専門性を持つ人物にできるだけ専門的な作業を任せるのが生産的(※もちろん、持続性や相乗効果の観点などから検討は必要)

2.論点

(1)中等教育の質保証と大学入学試験の相克

 昨今の教育改革全体に言えることであるが、そもそも「大学入試が高校教育の在り方を規定する」から大学入学試験を改革するべきという問題意識は、ある程度の妥当性は持つものの基本的にはおかしなことである。高校卒業認定の時点で適切な管理ができていないことの裏返しでしかない*1

 こういうことを言うのは、まず高校生のなかには高卒就職する人がいる以上、そうした人たちに対して機能しない大学入学試験による高校教育の規定ではなく高校卒業段階での質保証を行わなければならないのである*2

 次に、大学の教育は選抜、教育、卒業認定の全体のプロセスを通して行えばいいのであって、大学の入試の自由度が高くないのは問題じゃないのかと思うのである。この点については後述する。

(2)大学教育全体における入学試験の位置付け

 大学教育は選抜、教育、卒業認定の流れのなかで行われる。そのなかで、選抜にどれだけの比重を置くかはそれぞれの大学に任されるべきである。教育に比重を置くから選抜はあまり重視しないということもありうるし、教育をしやすくするために選抜に力を入れるということもありうる。結局はそれぞれの大学の教育全体のなかで、入試が適切だと思われる位置付けにあればいい。二次試験を行わないというのも選択としてある(というかセンター利用としてある)し、どこも一律の入試改革や外部試験導入を求めることに対しては、どうなのかと思うわけだ。

(3)段階に応じた入学試験のデザイン

 入学試験は目的に応じてデザインされるもので、そのときに目的合理性と経済合理性の観点は重要である。全体から一括での選抜に問題が生じ、またそうした問題が多くの大学において共通するのならば、共通の試験で一次選抜を行うことは合理的な考え方である。その位置付けにあるのがセンター試験である。個別の大学での最終的な入学許可方針は異なるかもしれないが、差異はあるものの大まかな方向性が共通するならばそれは有益である。その活用方法(二次選抜との比率、教科による重み付け等)はそれぞれの大学が考えればいい。

 これまでの(国立大学の)入学試験では、これがあるから二次試験を受ける受験生の数を限定し、それに合わせた選抜方法を行うことができた。例えば、解答用紙全体を見てから、採点基準を再考する、配点比率を調整するなどである。これらのことは大規模テストでは行うことができない。そのような事実を考慮すると、まず記述はセンター試験であればいいどうのこうのではなく、必要だと思うならば入学試験全体のプロセスで実現されればいいし、あるいは個別の大学の方針としてそもそもそれを求めないという考えもありうるのである。

(4)大学の独自試験

 大学の独自試験には、受験生に対するメッセージの機能、問題作成に携わることによる学生に対する責任感の醸成、外部への情報漏えいのリスクの低減など、単純に選抜を行い教育につなげていくという以外にも意義はある。しかし、いくつか検討の余地はあると思う。

 まず、そもそも入試の試験は受験生にメッセージを与えるほど独自性があるのだろうか。学部間での問題の共通化など、運営上の事情で本当にほしいイメージを担保するほどではない場合が多いのではないだろうか。受験科目や出題分野、得点の比重からメッセージを与えるというのもあるのかもしれないが、それだけならば内製することに価値はあるのか疑わしいと思うのである。

 次に、大学教員は研究の専門家であっても、問題作成の専門家ではない。テスト理論はあまり詳しくない人が多いだろう(そもそも日本でテスト理論の研究は盛んではない)。加えて、学問的な正確性と学習指導要領への準拠によって二重に制約される*3。問題を解くのと作るのではその負担は比べ物にならないほど大きく、教員としての専門性が問題作成の専門性と適合するのかは疑わしい。

 仮に教員が問題作成を行うことが可能だとしても、次に問題なのは、継続性の担保と責任所在の明確化である。特定の問題作成に適正のある人物が作っている場合もあるかもしれないし、持ち回りでやりたくないけれどやっている場合もあるかもしれない。問題作成者は明示されないことが多く、その職務を担ったことは外に経歴として提示することが難しい。大変な職務に対して、手当の給付や教育負担の軽減といった、金銭的・時間的補償はあるのだろうか。他の運営業務でも言えるけれど、研究を中心にやりたいならば、ある意味無能を演じることが合理的行動だと言えるなか、組織における問題作成を適切に位置づけて、継続的に行える体制を作らなければならない。また、今回の大阪大学の事例のように、ミスが起こるという可能性は当然ありうる。リスクをゼロに近づけることはもちろん必要であるが、リスクをゼロに近づけるには多大なコストがかかるため、事前規制と事後制裁のバランスを取りながら、何か問題が起こった時に適切な処置を行う体制を整えておく必要がある。

 もう一つ専門性の点で言うと、入試改革のプレテストに大学を使うという噂(要出典)があったり、本日もだが大学入試センターに動員するとかあったり、「一般的に、専門性を持つ人物にできるだけ専門的な作業を任せるのが生産的」というセオリーから考えると本当にわけのわからないことがたくさん起こっているわけだ。

(5)客観試験とアメリカ式入学試験

 大学における多様性の重要さ、所得分布と学力水準の相関などを考えると、何でもかんでも客観試験がいいというわけではない。もちろん、アメリカの入学試験方式にもたくさん批判はあるわけで、そちらにすればいいというものではない。ただ、そういう観点を取り入れて現状のあり方を再検討することには意義があると思う。アドミッションの専門家だけで入学判断を行う大学が出てきてもいいと思うのです。

3.まとめ

 最終的には、下の3つの視点に着目しつつ、それぞれの大学がそれぞれ入学試験を適切に位置づけて、運用のなかでその精度をいかに高めていくか模索していくしかないのではないだろうか。

(1)制度の一部分の妥当性ではなく制度全体の妥当性に着目する
(2)目的合理性と経済的合理性のバランスを取る
(3)一般的に、専門性を持つ人物にできるだけ専門的な作業を任せるのが生産的

*1:確かに、認定の基準や実効性の担保、非認定者の中退問題など、実際やろうとしても方法としてどうするのかが難しいのは事実であるが、ここでは深入りしない

*2:時々、Fラン大学云々を非難する言説を見かける。そこには確かにモラトリアムを伸ばしたい学生、教育や労働のことをよくわからない親、資金難の大学の相互依存関係が一部に存在するのも事実であろうが、構造的には機能不全の中等教育の補償の機能を果たしているとも言えるかもしれない

*3:英語ヨンギノーに関して、TOEICTOEFLが認定試験になるかもしれないという話がある。まだ申請中なので実際にどうなるかは不明であるが、これまでさんざん学習指導要領への準拠云々と言っていたのに対して、この方針はどうなのか。結局認定されるような気がするけれど。